グラフィック・アーティスト鈴木盛人の公式ブログへようこそ。
作品がどのような考え方や日々の中で生み出されるのかをブログから感じていただけると嬉しいです。クリエイターが固執しがちな表面的な技術や攻略、数字よりも、自分がどんな事を大切にして日々を送るかというところに、クオリティのすべての理由が存在すると考えます。
WAS KING OF POP STOIC?
さて、「ストイック」というカタカナ言葉が気になって、家にいるアメリカ人に、ネイティヴは「stoic」という言葉は使うのかと訊いてみた。まず「う〜ん、古い言葉だから辞書を引いてみないと・・・」という返事が帰って来た。「古い言葉」というから30〜40年ぐらい前とかに流行った言葉で、今はもう使われていない言葉なのかと思い「どれぐらい古いの?」と尋ねると、「ギリシャ時代」だという。取りあえず、なぜ自分がそんな質問をしているのか伝えるために、「日本では『自分を厳しく規制し、楽をしない』とか『自分に厳しく、まわりからは硬派といわれるような生き方』とか『禁欲主義』という意味で使われているらしいけど、いまひとつピンと来ない」と伝えた。すると、そういう意味じゃなく、一言で言うなら「no emotion(無感情)」の事だと教えてくれた。ギリシャ時代の哲学で、怒ったり、笑ったり、喜んだり、感動したりもせず、気持を平坦に保てば長生きする事が出来るというものだそうだ。
「無感情・無感動」・・・カタカナの「ストイック」の意味はやはり掛け離れている。そもそもこの「stoic」という英単語が自分の英語での生活の中の会話に出て来た覚えが無い。「マイケル・ジャクソンの百分の一でもいいから、自分にストイックに、作品にこだわって取組んでみよう」というのは、やはり意味不明・・・情熱も感動も無いマイケル・ジャクソン!(笑)ちなみに「マイケル・ジャクソンみたいにストイックに」と言っているクリエイターが居たと(前のエントリーの事を)話をしたら、「一体マイケルのどこがストイックなんだ!?」と大笑いされてしまった。


言うまでもなく、英語で検索して出て来る画像と、カタカナで検索して出て来る画像の性質は全く違う。画像で見ると、この違いの原因は一体何なのかと、悲しくなってくる・・・。
関連記事:「テンション低いです」とか
「無感情・無感動」・・・カタカナの「ストイック」の意味はやはり掛け離れている。そもそもこの「stoic」という英単語が自分の英語での生活の中の会話に出て来た覚えが無い。「マイケル・ジャクソンの百分の一でもいいから、自分にストイックに、作品にこだわって取組んでみよう」というのは、やはり意味不明・・・情熱も感動も無いマイケル・ジャクソン!(笑)ちなみに「マイケル・ジャクソンみたいにストイックに」と言っているクリエイターが居たと(前のエントリーの事を)話をしたら、「一体マイケルのどこがストイックなんだ!?」と大笑いされてしまった。


言うまでもなく、英語で検索して出て来る画像と、カタカナで検索して出て来る画像の性質は全く違う。画像で見ると、この違いの原因は一体何なのかと、悲しくなってくる・・・。
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「ストイック」?
今回はとても秋らしい色彩溢れるビデオになりました。もの作りに携わる人間として、やっぱり家から出ないと駄目ですね。あ、もちろん家の中に人を招いて彩りのある時間を持つ事も同じぐらいに大事ですけど。今回はフランスで6年間(パリの三ツ星レストランなど13軒で)修行し、有名ホテルの総料理長を務めたシェフのお店に伺いました。自分はフランスに行かずとも、フランス仕込みの感性を頂くために足を運ぶというのは最低限必要な「旅」ですね。
最近つくづく思うのは、クリエイターたちがまるで「外付けハードディスク脳」みたいに、自分の体の中に蓄えた経験や知識ではなく、ネット上から拾って来ただけの情報をまとめるだけで「プロの自分がお伝えしています。参考になりましたか?」みたいな、読む人を馬鹿にしたような事が、当たり前のようになっているという事。そういうブログは読んですぐに筆者の「自身の無さ」が解る。経験の中で自分の言葉となっているのではなく、言葉や情報を拾って来ているだけで、筆者はそれを選んでいるだけ。そういうブログには当然パワーは無く、むしろ筆者自身が誰もコメントを付けないそのブログの見えない「お客様」にお礼を言うという一人芝居をし、「継続は力」なんて言葉で締めくくる。大概そういう人は自分で自分を評価するためにそんな言葉を使いたがる。そうじゃなく、人から言われてこそ本物ではないだろうか?気がつけば、僕は「継続は力」なんて言葉を、このブログでは一度も使っていない。念のために、ブログ内検索で「継続は力」と入れて調べてみたけど、やはり4年半の間、一度もそんな言葉は使っていない事が解った。
「継続は力」なんて当たり前で、その力はちゃんと結果という形で表して、周りの人から言われるようでなければ何の意味も無く、ただの「続けてる自分って立派でしょ?」的なアピールでしか無い。
話は全く変わってしまうけれど、「一度も使った事が無い言葉」で思い出しました。デザイン・ブログ村で、MJの「THIS IS IT」を観たというクリエイターがブログで「明日から彼の百分の一でもいいから、自分にストイックに、作品にこだわって取組んでみよう」と書いているのを見て、「ストイック」というカタカナを僕はこれまで一度も使った事が無いという事に気付きました。カタカナ言葉としてはよく耳にはするけれど、意味がピンと来なかった。こんな質問サイトがあり、最後のほうでは「自分を厳しく規制し、楽をしない」とか「自分に厳しく、まわりからは硬派といわれるような生き方」なんてところに落ち着いてしまっていますが、辞書では(これも初めて引きました)「1.(Stoic)ストア学派の哲学者。2.ストア学派風の克己禁欲主義・厳粛主義を信奉する人。」とあり、つまりは「禁欲主義な人」という事なのだろうけれど、どうしてカタカナにしてボカす必要があるのか解らないし、もうそれ自体、自分に厳しい人がする事じゃないですよねぇ(笑)
MJは意欲的な人だったけど、禁欲的だったかどうかは疑問。それに僕みたいに美食を楽しむ人は「禁欲」とは全く逆なものとして扱われそうな気がするし、むしろ「どこにも出かけないで、美味しいものも食べないで、閉じこもって仕事するのが禁欲」みたいに捉えられないだろうかと心配になる。だとしたら「ストイック」というカタカナ語は、そういう引きこもり派のクリエイターには最高の慰め言葉になるのかなと思う。
しかし実際は、外にも出ず、閉じこもって仕事に取り組むだけの人は、人々が感動するものを一緒に体感する事もなく、一流を極めたシェフの精神を味わう事もなく、時間的自己管理の出来なさや、収入(安定)への固執など、そういうのは「己への厳しさ」とか「禁欲」とはとは正反対な気がするのだけど・・・。
関連記事:提案できないクリエイターたち
MAN IN THE MIRROR
モー・プレジャーがキーボードを務める「THIS IS IT」バンドによる演奏。これは今月ジョージ・ロペスの番組に出演した時の模様です。モーが教えてくれました。

満を持して発売されるモーのアルバム(2月発売予定)。こんな状況で(マイケル・ジャクソン・バンドのメンバーのアルバムとして)発売されるという事に、やはり運命の力を感じてしまいます。僕がアートワークに仮につけていた名前が気に入られ、アルバム・タイトルになりました。
作品は残る。
残る作品を作る。
文化の一部になる。
その自分づくりをする。
そう考えると、今日何をして自分を磨けたかという事まで疎かに出来ない。
"Man In The Mirror"
まずは鏡に映る男(自分)から始めてみよう
その人に変わってくれるようお願いするんだ
これほど解り易いメッセージはない
世界をより善くしたいのなら
見つめるべきなのは自分自身
そこから変えていくのさ
2012

「2012」観てきました。物凄いパワーのローラーコースター・ムービーです。漫画的なストーリー展開にビデオゲーム的なアクション。ディズニー・シーのアトラクション的に楽しめた作品でした。下品じゃないポスターも良いですね。
途中で何度も拍手が起こりました。
(ここからは追記です)
しかし「作品に大感動した!」という拍手ではなかったです。映画の中の人達が間一髪でピンチを乗り越える度に起こる拍手・・・そう、アメリカ人の観客達って、映画の中の人や展開に対して拍手しているんです!これは今まで意識した事がありませんでした。「THIS IS IT」の記事のどこかで触れたように、「映画なのに拍手するなんて馬鹿じゃね」みたいに書いている人が居ましたが、それは何に対して拍手をするかという感覚の違いのせいだと、今回の映画で気付きました。「THIS IS IT」の時は、コンサートみたいに一曲毎に拍手が起こり、応援の歓声のようなノってる声も時々上がりました。完全に映画の中に入ってコンサートを楽しんでいる。決して映写機やスクリーンに向って拍手している訳でも無いし、見返り(誰かの反応)を求めて拍手している訳でもありません。涙を流すのは決して見てもらう為じゃないのと同じで、拍手や歓声も自然と体が反応しているだけなんだなぁと・・・。そう考えてみると、日本のコンサートで「他の観客が盛り上がっていない」と怒ったりするファンなどは「自分が盛り上げなきゃ」とか「盛り上がらないとミュージシャンが可哀想」とか、頭で考える形式(立て前)的な事ばかり気にしているからなんだろうなと感じます。
予告ムービーはこちら。
ストラスジュール
日本を代表する小山英勝シェフによる、一日わずか5組限定の横浜の小さなお店「ストラスジュール」。訪れるのは4度目。2畳程しか無さそうな小さなキッチンで小山シェフとアシスタントのたった2名の手によって、極上の料理と最高の時間が作り出される様は、まるで魔法のエンターテインメント。
グルメによるレビュー・サイトには、このお店の味を物語る絶妙なレビューがありました:
> インターンシップに来ていた学生の送別会に、ランチ
> で伺いました。(中略)「とうもろこしの冷製スープ」
> が、これまでにない食感で、思わず、一緒に食事をし
> ていた事務局員が「とうもろこしのスープって初めて
> 頂きました」と言ってしまい、私も同意してしまうよ
> うなものでした。
そう、「コーン・スープ」なんて即席でも一般のレストランでもお馴染の物ですが、小山シェフの腕にかかると「とうもろこしで作ったスープ」という、素材の良さを引き出した「作品」に出会うような、新しい衝撃を受けるのです。今やどんなに低レベルな商品やお店の宣伝文句にも安易に使われまくっている「厳選された素材を真心込めて」なんていう嘘まみれなコピーなどではなく、嘘の無い上のようなレビューの言葉・・・どんな宣伝コピーでにも勝る最高の賛辞ではないでしょうか。
お店を訪れる客もレベルが高く、レビューを観ると、店のレベルの高さと共に、客のレベルの高さも伺い知る事ができる。いつもこのブログで述べているように、能力の無いクリエイターほど素人を見下した「プロ発言」が多く、実際そういうレベルの顧客にしか求められない現状を物語っている。レベルの高い客に支持されている店のレベルはやはり高い。こんなレビュアーの見解を見てもわかる:
> わずか16席ほどの狭い空間、ここは氏の自己実現の場と
> みた。腕利きのフランス料理人が厳選した食材に和のテ
> イストを加え、こだわった器に盛り付けた懐石料理風の
> フレンチが楽しめる。三種類あるランチコースの真ん中、
> シャンゼリゼコースを選ぶ。オードブル6点盛りは杯に
> それぞれ盛って出す。器はレイノー、箸はエルキュイで
> いずれもリモージュのもの。魚のグリエ、牛タンの赤ワ
> イン煮などなど、梅や牛蒡、味噌など和の食材や調味料
> が控えめに使われている。今流行の深みの無い味付けの
> 創作フレンチなどとは別の、フランスで流行のモダンフ
> レンチを逆輸入したような美味しい料理で満足。店構え
> は比較的あっさりしているが店内はモダンでちょい和風、
> 和紙をコーティングして貼ったという広いカウンターの
> 定員は僅かに4名。調理場との距離が近いので、シェフの
> 動きを見ながら料理を待つ。出来あがったばかりの熱々の
> 皿がスッと出てくる距離の短さが良い。カウンターの上に
> は禁煙のサインが置かれている。店全体が禁煙かは未確認。
目の付けどころが違います。ちなみにこのレビューは「食べログ」などで1200近くの高級レストランのレビューを書いている方によるもの。シェフは料理を作るプロですが、堪能する側も(単に作る側では無いというだけであって)同等かそれ以上の知識を持っている。作る側だからと言って威張るばかりの、無経験・無知なクリエイターたちに対していつも苦言を呈すのは、僕自身そういった「堪能者」たちを目の当たりにするべく、現場に足を運んで、クオリティを体感する側として「良い文化」というものを築く人達を見ているからです。
もしも、こういった高クオリティのお店の広告などを依頼されたら、多くのデザイナー達はその時だけ情報を集め、自分で考えた内容で、余白を埋め尽くすようなデザインをするでしょう。それでは駄目なのです。
ちょっと前にまた「何が良くて何が悪いかなんて、はっきり言って解らない。ある人にとって悪いものでも、ある人にとっては良いのだから、何が良いかなんて誰にも解らない」とブログでつぶやいているクリエイターを見かけました。こういう言葉はよく見かけますが、これだから日本のあらゆる物が一時的で、継承されていかないような物で溢れているのだと感じます。
「伝統」という言葉を使うと、またクリエイターたちは大袈裟な意味で受け取って敬遠するでしょうから、「その道のプロフェッショナルたちが受け継いで来た、人々に愛され続けて育てられて来た事」と言えば解り易いでしょう。まるでそういうものが一切無かったかのように「何が良いかなんて」とオール・クリアにして「解らないゴッコ」を始めてしまう。(「デザインはアートか」なんていうのも同じレベル。)
その「解らない」は単に個人的な「無知」であって、知る為の行動を起こすという選択肢さえ、その愚かな頭の中には無いようです。
(関連記事:伝わるのは感動する心の波動と本物の精神)
「ストラスジュール」に話を戻しますが、この日、僕は厨房内で「有り難うございます」という声を聞きました。ボスである小山シェフがアシスタントの女性に「有り難うございます」。このお店の大切にしているものが感じられました。
さて、映像でもお分かりになった方が居るかもしれませんが、僕はあえて皿に描かれた「紅葉賀」の「賀」という文字に意識が集中しました。「よろこび祝うこと」・・・現代の日本人の日常には、この「賀」が不足しているような気がしてなりません。逆に「〜じゃなくてもいい」ばかりが蔓延り、今のような不景気スパイラルに陥っているのではないかと。豪華な料理にちょっと高級なワインを、さらにシャンペンも添えましょう・・・そんな日常の「賀」の精神が、日本人を内側から豊かにするのではないでしょうか。
"NO MUSIC, NO MY LIFE"(帰省篇)
さて、駆け足で過ぎ去った帰省。

家の近くのショッピングセンターで撮影。2mぐらいの壁です。デザインした人、恥ずかしい。良い絵とか良いデザインとか言う以前の問題。それにしても誰も気付かなかったのか?(関連記事:LET'S COOKING)
最近、「No music, No whisky」なんてコピーがあるらしいですね・・・これも何だかなぁな感じです。「No music, No life」は「音楽が無い人生なんて有り得ない」という意味で良いコピーだと思いましたが、「No music, No whisky」では「音楽が無いのなら、ウィスキーもやめときましょう」にしか聞こえない。タワーレコーズとサントリーの「コラボレーション」だそうですが、これまた安易で阿呆丸出しなコピーですね。悲しくなりました。「No 〜, No 〜」の流用コピーは、もういい加減やめて欲しいです。以前「No music, No my life」なんていうヘンテコな変形コピーをどこかで見かけたのですが、僕の仲間内ではお笑いネタになってます。検索したら出て来る出て来る!「No music my life nothing」なんていう、でたらめ文法系まで(笑)

2夜連続で「さと」で、しゃぶしゃぶ食べ放題!本当は寿司を食べに行く予定でしたが、今週は寒い日が続いたので、体が温まる鍋で大正解でした。別の友達に話したら行きたいとのことで、2夜連続となりました。僕としては毎日でもいい!って感じです(笑)30品目の中から、好きなものを好きなだけ注文して、1980円。
前から気になっているんですが「さと」って、「さと」ですか?それとも「さと」(里)?僕は普段「さと」と発音しているのですが・・・

足柄サービスエリア(上り線)に居た野良猫ちゃんたち(以前は居ませんでした)。美しいミルクティー色で、ブルーの瞳(眼の病気も無し)。もしかしてサービスエリアに捨てられた猫?同じミルクティー色のがもう一匹と、虎模様のが一匹居ました。

クローズアップの写真を撮ろうと思ってしゃがむと、寒いので温かい人の股の間に入って来てしまうため、上からのショットになってしまいました。足柄サービスエリアの、売店とトイレの間に住んでるみたいです。これから雪が降る季節が来るのに、可哀想・・・誰か、里親になってあげてください!

家の近くのショッピングセンターで撮影。2mぐらいの壁です。デザインした人、恥ずかしい。良い絵とか良いデザインとか言う以前の問題。それにしても誰も気付かなかったのか?(関連記事:LET'S COOKING)
最近、「No music, No whisky」なんてコピーがあるらしいですね・・・これも何だかなぁな感じです。「No music, No life」は「音楽が無い人生なんて有り得ない」という意味で良いコピーだと思いましたが、「No music, No whisky」では「音楽が無いのなら、ウィスキーもやめときましょう」にしか聞こえない。タワーレコーズとサントリーの「コラボレーション」だそうですが、これまた安易で阿呆丸出しなコピーですね。悲しくなりました。「No 〜, No 〜」の流用コピーは、もういい加減やめて欲しいです。以前「No music, No my life」なんていうヘンテコな変形コピーをどこかで見かけたのですが、僕の仲間内ではお笑いネタになってます。検索したら出て来る出て来る!「No music my life nothing」なんていう、でたらめ文法系まで(笑)

2夜連続で「さと」で、しゃぶしゃぶ食べ放題!本当は寿司を食べに行く予定でしたが、今週は寒い日が続いたので、体が温まる鍋で大正解でした。別の友達に話したら行きたいとのことで、2夜連続となりました。僕としては毎日でもいい!って感じです(笑)30品目の中から、好きなものを好きなだけ注文して、1980円。
前から気になっているんですが「さと」って、「さと」ですか?それとも「さと」(里)?僕は普段「さと」と発音しているのですが・・・

足柄サービスエリア(上り線)に居た野良猫ちゃんたち(以前は居ませんでした)。美しいミルクティー色で、ブルーの瞳(眼の病気も無し)。もしかしてサービスエリアに捨てられた猫?同じミルクティー色のがもう一匹と、虎模様のが一匹居ました。

クローズアップの写真を撮ろうと思ってしゃがむと、寒いので温かい人の股の間に入って来てしまうため、上からのショットになってしまいました。足柄サービスエリアの、売店とトイレの間に住んでるみたいです。これから雪が降る季節が来るのに、可哀想・・・誰か、里親になってあげてください!
静岡からです

帰省中です。今回もいつものようにアメリカのTVを録り集めたDVDを沢山持参。読む時間が無くてストックしておいたアメリカの雑誌も5〜6冊持参。帰省しても地元のTVを観る事はほとんどありませんが、食事の時間にいつもTVがついている(←典型的日本の家庭かもしれませんね〜)ので、TV番組やCMのクオリティの格差におけるショックから完全に逃れられるわけではないですが(笑)。普段、日本のTV番組や広告の酷さを語る時、首都圏基準で語っているので、ここ静岡のようなローカルのクオリティとなると・・・むしろ東京発信のものが「素晴らしい」とさえ思えてしまう程です(汗)
ここで暮らしていた頃は、「東京のCMが見れない。クオリティが遮断されている」と感じたものですが、今は日本人達の「日本のものしか見れない状況」を懸念せずにはいられません。何かを見ている間、何かを見れていないのです。それが日常ともなると、必ず、見れている人達と見れていない人達との間に、感性的格差が生じるはずです。それが「良いものを見れている素人」と「良いものを見れていない物作りのプロ」であれば、それはとても深刻な事であり、その格差にさえ気づかずにデザイナーとかクリエイターという肩書きだけで「素人には解らないでしょうが」「世の中はデザインであふれているのですよ」なんて語ってしまう人達で現場が埋め尽くされている。
さて、アクセス解析を見たら「日本の広告の良さ」という検索ワードでたどり着いている方がいたので、そのページを見てみました(下に再掲載しますね)。日本の広告の良さは何かなんて意識した事はありませんでしたが、強いて言えば「日本の広告の悪いところをすべて無くしたもの」であれば良い広告なのではないかと思います。それぐらい酷いものだらけだと思うというのが僕の見解です。感動できるものが極めて少ない。稀にあったとしても、それが「日本らしさ」であるとも思えない。
海外の人達から「日本の広告は素晴らしい!」と絶賛されるようなものを発信し続けているのならともかく、「日本の広告の良さ」なんていう、自画自賛のような言葉探しは、いかにも日本人的だと僕は感じます。本来、プロとして「これではいけない(こんなレベルではいけない)」と言うべき立場の人達が「これで良いんです」という言葉ばかり言い、その言葉を探すというのはどういう状態を表しているのか。
関連記事:
「日本のバラエティ番組が世界でひっぱりだこという嘘」
「日本人の妙な自己満足的思考」
「日本人が足りない!?」
以下、2008年1月の記事より----------------------------------------------------

「形跡は物語る」という「CSI」の番組広告。アルファベットの札が「ここで殺されたのではない」というメッセージになってますね。

「平和に運転」という保険会社の広告。侵入レーンは衝突事故を防ぐ形になってますね。そして全体が平和マークになってます。

こちらも同じ保険会社の広告。車が衝突したかのように、ページの端がグチャグチャになってます。
僕は欧米の雑誌広告は大好きです。写真はそれだけで美しいし、メッセージはウィットに富んでいるし、デザインも上品で、日本の広告のようにでかい文字、派手な色、やたら沢山のメッセージを詰め込むというような低次元な見せ方はしないからです。
そんな広告が沢山見れるというだけで欧米の雑誌はワクワクしてしまう僕ですが、家のハウスホストさんは雑誌が届くと(日本とちがって、欧米では定期購読で送られて来るというのが一般的。値段も10分の1ぐらいだったりします。)すぐに、広告ページを破る作業に取り掛かり、記事以外のページはすべて捨ててしまいます。僕としては何だか勿体無い気持ちでいっぱいです。
TVのコマーシャルもそう。コマーシャルに差し掛かると音声をミュートにして家族や友達との会話の時間に切り替わります。録画したものの場合は必ずCMスキップです。僕としてはCMも観たい派なんですが・・・(ちなみに日本のCMは大嫌いです・笑)たまに凄いCMがあると音声を戻して「このCMスゴイよね」なんて会話にはなりますが、そこまで視聴者に思わせるCMじゃない限り、CMってほとんど「うるさい存在」なんですよね・・・昨日のエントリーの駅のホームの広告の話に通じるところがあります。
美意識の問題なのでしょうね。美しい広告・感動する広告じゃないと訴える力は無いという、厳しい一般人の意識が一層広告のクオリティを高めているのかもしれません。日本では出ているタレントだけで話題になってしまうので、作る側もタレントを出せば良いという堕落した世界になってしまっています。タレントが出ていないTVコマーシャルを見つけるほうが難しいぐらいです。情けないです。
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