グラフィック・アーティスト鈴木盛人の公式ブログへようこそ。

作品がどのような考え方や日々の中で生み出されるのかをブログから感じていただけると嬉しいです。クリエイターが固執しがちな表面的な技術や攻略、数字よりも、自分がどんな事を大切にして日々を送るかというところに、クオリティのすべての理由が存在すると考えます。

日々のクオリティ



こちらのレストランで過ごすのは今回で2度目。すべてが時間のクオリティを高めるためだけに存在するかのような、そんな空間です。決して高価だから良いというわけではありませんが、人の体に吸収されるものは、やはり丹誠込めて作られた本物であるべきです。「そんな時間を過ごす暇などありません」と当然のように言い捨てるクリエイターたちには絶対に作れないでしょう。誰もが本物でありたいと思っているけれど、大概それは自分が関わる事が大前提になっている。「良い物を作りたいと思います」なんて誰にでも言える事です。しかし、実際に自らが良い物を大切にしているかと問われれば、その答えは単なる自己申告でしかない。自分が仕事で関わるかどうかなんて事とは関係なく大切にしているかという部分を見れば、「この人は本当に物の質を大切にしているな/いないな」と客観的に見ても解るものです。あらゆる創造物は、人々の生活の質や文化の質を上げて行くものでなければならない。だから、それを大切にしない人に作れるわけが無いのです。

関連記事:「時間を大事にしていると思えるデザイナーを見かけない」

IMAGINARY VISION



白黒で描きあげるつもりでスタートしましたが、途中で試みを変えて・・・

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色を付けて進めることにしました。まだ全体の10%ほどしか手を加えていない(単色の濃淡だけの)ラフの段階ですが、これからじっくり時間をかけて深みを出して行きます。今回は元になる写真が無いので、すべて想像で進めて行きます。目の前に無いものを、どれだけ心の中で見つめることが出来るかの挑戦。

BETTER GET IT IN YOUR SOUL



僕はよく友達に「田舎者というのは地理的なこととは関係なく、中身が洗練されていない人達の事を言うのだと思う」という話をします。都会に住んでいても洗練されていない人は居るし、田舎に住んでいても洗練されている人達は居る。東京の人と結婚した中学時代の友達に会った時、ご主人が23区外の住所になるのは絶対に嫌だと言い張るそうで、折角の良い物件を見送らなければならないという話を聞いて、何てくだらないプライドだろうと思った。他にも、地方から東京に移り住んだと同時に、出身地の人達には馴染みの無さげな場所や店の名前のオンパレードになったりとか、好きで来たくせに数ヶ月後には都会の孤独な住人をアピールしたりとか(笑)

洗練されている人達は、大概広く出歩き、自分の世界を人々と共有し、決してひとつの場所に閉じこもっては居ない。洗練されていない人達は、交流が少なく行動範囲も狭い・・・つまり世界が狭い。行動範囲が狭くなりがちな地理的田舎では、特に積極的に洗練された人達と交わる事が必要かもしれない。ネットを閲覧するだけでは、行動としての洗練された感覚が身に付かない。むしろ共に過ごす事で得られるものだからです。

恐らく誰もが一度は経験があるであろう例を取り上げるとすれば、法事等で親戚などが多く集まったりすると、言って欲しくは無いような事を笑いに託つけて人前で言って来るような人が必ず一人は居る。そういうのは「洗練されていない人」だと思う。

僕のような仕事をしていると、社交辞令なのか本気なのか、対して親しくも無いのに「簡単なやつでいいから、ちょろちょろっと(タダで)描いてくれないかな。額に入れて家に飾りたいし、将来高く売れるかもしれない」なんて良く言われるのだけど、冗談も通じない奴だと思われるのも嫌なのでそれとなく話を合わせていると「じゃぁ、いつ描いてくれる」みたいな事まで言ってくるからとても厄介。その気が無い事さえ気付いてはくれない。

「精神的田舎者」は、陽気である事が良い事だと思うのか、とにかく笑いに託つけて失礼な事を言って来る。しかし割と日本人には多い傾向かも知れない・・・TVのお笑いの影響だろうか。それとも元々そういう体質がお笑いに反映されているだけなのか?「親しき仲にも礼儀あり」・・・大人ならそうありたいものだけど、お笑いが挨拶みたいな土壌だと、いきなり図々しい事を平気で言って来るから、こちらも同じ冗談まじりで返すしか無いという事が多々有る。

親しい欧米人の仲間の集まりでは、決して日本人から言われるような失礼な事は言われない。絵を描いている人間だと言えば、絵の創造性などを語ってくれたりするし、活躍を祝福してくれるのが常だ。日本人はとかく「絵の事は解らない」「音楽の事は解らない」が第一声で、続くのは「今度描いて」だの「儲かっているのでしょう」みたいな事だったりする。欧米人にも「描いて欲しい」という人達はたまにいるけど、そういう時は大概「知り合いの出版社の人が良い絵を探しているから」というような、具体的な話に展開する。そればかりか、この絵に込めたメッセージは何なのかというような細かな事まで訊いて来るので、僕のつたない英語では言い表せる事に限りがある。

そういう会話自体が、社交的な欧米文化では当たり前で、何でもお笑いや自虐で済ませたりする日本とは違うため、僕自身「大人ならそれぐらいの会話力を持ったコミュニケーションが出来なければ」と、大人として長い間やって来なかった(大人がそうあるべき環境自体が存在して来なかった)事に気付かせられる。友達の子供(中学生)と話しても、そういう質問はされたりする・・・。

そういえば、先日のグラミー賞での、マイケル・ジャクソンの息子のプリンス君のスピーチを観て、自分自身の言葉が魂という勢いを持って出て来るのを感じました。つい、昨年のこちらのスピーチを思い出してしまいました・・・。それは日本のというローカルでしか通用しない。

日本で「洗練」というと、見た目の格好・シンプルさと捉える人がデザインの現場でさえ多いのですが、焦点をしっかり当て、無駄を無くし、ちゃんとした成果を生み出す事(つまり矛盾せず、自分をごまかさない事)であると僕は思います。

iPhoneアプリ『Art Gallery』



不眠症になるぐらい個人的にハマっているiPhoneアプリケーション「Art Gallery」。古くは1600年代のものから最新のものまで、世界の名画を鑑賞できます。このアプリケーションで数日前から僕の作品が表示されるようになりました。







無料版(広告付き)もあるので、いかがですか?



ご機嫌な専属モデルさん(笑)

KINGS OF LEON

今年のグラミー賞、3時間半という長い時間があっと言う間に感じられるほど、濃い内容でした。何年か前までは「新しい人達の事は解らない」なんて投げてた自分ですが、今では受賞者の予想が高確率で的中するまでに・・・。



以前こちらで紹介したキングス・オブ・リヨンが、ビヨンセやレイディ・ガガ、ブラック・アイド・ピースを差し置いて、主要4部門のうちの最優秀レコード賞を受賞したのが嬉しかったです。

「Kings Of Leon」の日本での表記は「キングス・オブ・レオン」のようですが、正しい発音の「リオン」で検索すると僅かながら出て来ます。ちなみに今回のグラミー賞のパフォーマンスにレオン・ラッセルも出て来ましたが、彼も本当の発音は「リオン・ラッセル」だそうです。

ちなみに、最近まで僕も間違った発音のまま覚えていた人達:
(誤)シンディ・ローパー → (正)シンディ・ラウパー
(誤)シガーニー・ウィーバー → (正)シゴーニー・ウィーヴァー
(誤)ダン・エイクロイド → (正)ダン・アクロイド
(誤)ビング・クロスビー → (正)ビング・クロズビー
(誤)マーティン・スコセッシ → (正)マーティン・スコスィーズィ(スコシージ)
(誤)ビル・マーレー → (正)ビル・マリー
   (ちなみにMJの担当医コンラッド・マーレーも正しくは「マリー」)

人名以外では:
(誤)ページェント → (正)パジェント

「はてな」より↓
 英:pageant
 正しくは「パジェント」。日本では誤った発音で流布した。
 歴史的な場面を舞台で見せる野外劇のこと。
 パジェントとは「ページを開く」と言う意味の言葉から来て
 おり、歴史的な出来事の場面を本のページをめくるように
 次々と表現し、造っていくという意味である。

検索してみると、少ないながらも本当の発音に近い表記にこだわっている人達が結構居ることが解る。どんなにメディアが間違った表記を貫こうが、正しいものを知った以上、わざわざ間違って使う理由が無い。デザイナーや創造に携わる、情報をメディアに載せる側がこういった事を問題視しているのをほとんど見かけた事が無い。むしろわざわざ通じないカタカナ新語を得意になって使いたがる。メディアを司る人達が洗練されていない。

上に記したどの表記も検索してみると、本当の発音に近い表記にこだわっている人達が居ることが解る。どんなにメディアが間違った表記を貫こうが、正しいものを知った以上、わざわざ間違って使う意義が無い。デザイナーや創造に携わる、情報をメディアに載せる側がこういった事を問題視しているのをほとんど見かけた事が無い。むしろわざわざ通じないカタカナ新語を得意になって使いたがる。メディアを司る人達が洗練されていない。→参照

音声で「awards(アウォーズ)」と言ってる傍でカタカナで「アワード」と平気で表記する神経が、僕には理解できない。

流石に「マイケル・マクドナルド」を「マイコー・マクダーナゥ」なんて書いたらふざけているようにしか見えないので抵抗はあるけれど・・・。「正しい発音に近い表記にしたら、全く何の事だか解らなくなって混乱を招く」というようなもの以外は、少しずつでも正して行く必要はあるのではないだろうか。そもそも使い始めに気をつけないのが一番いけないのだと思う。

SHIZUOKA PHOTOS

帰省時に撮った写真を公開します!


富士山

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富士山

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いつも愛犬を連れていく公園からの眺め

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ひとりでブランコできました

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みかんがいっぱい

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よく見ると変わった形

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最終日もやっぱり「さとしゃぶ」

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街で見かけた変なコピー(商品名)。
「Engrish.com」に送ろうと思って撮りましたが、すでに投稿されていました。

理想をより高く



老舗ホテルのフレンチ・レストラン。前菜の一部が、まるで朝食のサラダみたいで「ん〜」でしたが、それ以外は絶品。特に子羊の美しいレイヤーのプレゼンテーションが最高でした。白菜のポタージュというのも初めての味覚。

帰省から戻って初めてパソコンの前に座りました。iPodのモバイル環境でネット閲覧は可能ですが、ほとんど巡回する事もなく、ネットから遠ざかっていた間、ストレスからも開放された気分。

衰退して行く日本を見つめながら、「〜でなくてもいい」というどっちつかずな日本人的思考と、自分は未熟だとすぐに謙遜して開き直ってしまうくせに、思い通りにならない社会に対しては文句を言うだけの体質に、国の衰退の原因があると感じずには居られない。

僕の場合、「〜じゃなければ嫌だ」という自分の姿勢、そして「だから自分はこうします」という自分なりの考えと,行動、そして結果はちゃんと提示して行く。それに対して、部分的に揚げ足を取ったり、最初から中傷目的で無駄なエネルギーを注ぐ人達も居ますが、ちゃんと筋を通し、正々堂々と胸を張って(もちろん自分が誰なのかもちゃんと明かして)主張するのであれば良いけれど、行動自体が意味不明で調和しない人達が決して少なく無い日本が、混迷と共に衰退して行くのは当然の事のように思える。

自分のしている事に誇りを持てるか、そしてそれは社会を良くしているか。個人として、理想の人間になる努力を毎日しているか。他人より、まず自分が率先して、その考えを実証して行くべきですよね。

ある実業家の方がTwitterで「"なりたい"ではなく"なる"と言う」と書いているのを見て、「したい」と「する」という言葉における意識の大きな違いを感じました。言葉で言う前に行動していれば、なお良し。

小さな一歩は勿論大切だけれど、その小さな一歩を言うばかりで、結果的に大きな前進になっていないのなら、その小さな一歩自体が見直されなければならない。誰に認められ共感されるかという事も大事。
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