近ごろ日本のクリエイターたちの間でやたら目につく新語「ブランディング」。結局「ブランド化」の事でしょ?ブランド化(ブランドとして成功)するにはどうしたら良いかは、それぞれの企業が考える事。これは「ユーザビリティ」の時と同じで、答え(というか理念/手段)は限りなくあるので、「ブランディングとは」とか「ユーザビリティとは」と、その具体的な手段を定義づけの段階で言うのはおかしい。ユーサビリティのトピックでも書きましたが「ユーザビリティとは使い勝手の良さです」とか、「ブランディングとはブランド化の事です」だけで説明は済むはずです。

それにしても「ブランディング」。良い品、良いサービスなど、クオリティが消費者に認められて、企業の信頼を得てこその「ブランド」(その社名の価値)なのに、二流、三流企業までもが「ブランド」(ブランドになれるための手段)を求めればなれるというのなら、世界中のすべての会社がすでに「一流ブランド」になってるはずです(笑)

僕は「ブランディング」というブーム的新語は「馬鹿が治る薬」と同じだと思う。そんな薬なんか実際には存在しない。あればそんな薬を求める人など、すでにこの世から居なくなってるはず。馬鹿な人間が「塗るだけで治る」と簡単に信じ込むからこそ、「馬鹿が治る薬」は大ブームとなる。実際はそんな薬など有るわけもなく、唯一の方法は賢くなる努力を地道にすることしか無い。

ちなみにWikipedia(英語版)で"Branding"を調べてみると、日本語のその意味で使われているのは"Brand Management"であり、「the application of marketing techniques to a specific product, product line, or brand」とある。結局は、一流ブランドが一流になった所以を分析し身につける事であって、そんなのはどんな能無し企業でも望んでいる事だ。それだけでなれる(取り組んでいる)気分になれるというのが、幻の万能薬「馬鹿が治る薬」と同じ(笑)

こういう事が、日本という国レベルでブームとなる事が、この国の業界人の洗練されて無さ(要するに馬鹿さ)を物語っている。

「マーケティング、PR、広告、ブランディングの違いとは?」なんていう妙な混ぜ方をしている(位置づけ自体がおかしい)説明を発見。結局「相手に商品の良さを言わせる」と言ってますが、その為に何をするかといえば、結局また振り出しに戻るだけ。ブランド化する力(センス、実力、行動力)のある人は、そんな理論展開などしなくても、もう実行している。感覚的に解っている。理論展開だけで取り組んでいる気になってる人達は、延々と理論展開するばかりで何も進まないというのが現状。

こういう図式を書くだけで解決すると思ってる(笑)

「ブランディング」「ユーザビリティ」「ホスピタリティ」・・・論じるだけで取り組んでいるような気分になれるキーワードだというところは共通しているようだ。

関連記事:
世界から笑われる
セバスチャンの店
例えば食品の賞味期限偽造などによって、それを食べた人が具合が悪くなったりすれば、その被害は明らかに解るものですが、デザインの場合、質が低いからと言って、ハッキリした被害状況など解らない。与えた側にも、与えられた側(お金を払った側)にも被害という概念さえ無いかも知れない。


以前ある店で撮った写真が出て来ました(ビデオカメラのデジカメ機能で撮ったもの)。「アルコール中毒者用メニュー」?・・・こんなものが堂々と出回っているってどう?

今日もデザイン・ブログ村で、「一般の人達」を見下したような内容のエントリーを見かけました。「一般の人達が自分達デザイナーと同じ優れた感覚を持ってくれているなんて有り得ない」と。きっとこういうお粗末なデザインをしている人達って、「プロである自分ほどの知識や感性は周りには無い」という驕りによる勘違いをしているのだろう。校正はちゃんとしているのだろうか?この間違った英語を書いた人(それと同等、またはそれ以下の人)が校正しているのでは全く意味が無いですよ?

このメニューがあった店の人は、このメニューのおかしさに気付いていないみたい。しかし毎日訪れる莫大の数の客の中には、その店の馬鹿さを笑っている人達は決して少なく無いはず。苦情が来ないからと言って、問題が無いわけでは無いのがデザインの危険なところなのだ。低レベルなデザインは、その店のレベルとして印象は定着してしまう。

しっかり数字で被害が表れなければ事の重大さが解らない・・・そんな馬鹿な機械みたいなクリエイターが多いんじゃないか。

デザインを職業にしていれば「デザインのプロ」?しかし、果てしなくピンキリである「レベル」に関しては、誰も触れようとはしない。低レベルなデザインは、それだけで世の中を汚す公害。

PS:「カフォルニア ワイン」もおかしい。(California)

関連記事:創る素人・堪能のプロ

先月初めて訪れたレストランに40日振りに訪れました。ワインリストを眺めながらワインは何にしようかと連れと相談していたら、ウェイターが「前回いらした時には○○をオーダーなさいましたが」と、すかさず指摘してくれました。凄いプロ精神!そういうデータはコンピュータ管理しているのかも知れませんが、それにしても「痒い所に手が届く」見事な対応に感動しました。

話は変わりますが、このブログの記事を取り上げてくださっているこんなブログを発見。 良いデザイン(正確には「デザイン」という表現的/物質的な部分だけでなく、デザインの存在する時間や、そのデザインを堪能する人々の人生まで)を追究する上で、「こうすれば良いデザインが出来る」というような事だけでなく、いま存在する悪い部分(問題点)をクリアしなければ、結局はその問題が解決されない土台の上に、結果だけを求める形だけのデザインを築く事になる・・・というのが僕の考え方です。しかし現状は、業界の問題点について語る場所には、ほとんど僕ひとりで語っている状態で、本気で問題点から解決しようというクリエイターがほとんど居ない。そんな失望感の中で、少しでも賛同してくれるクリエイターが存在することを知ることで勇気づけられます。

例えば上のビデオで、客は「調理のプロ」ではないけれども、「味の解らない人達」ではありません。むしろカジュアルなレストランに行くと「この店員は客の要望を全く解っていない(=客として良い店に行ってない/良い店の客としての経験が無い)」と感じる店は沢山ある。「店員」とか「調理師」というプロの肩書きだけで、客を素人扱いできるものではありません。我々客は「食べるプロ(堪能の達人)」なのです。作るだけが「プロ」ではなく、その質は堪能者の質(レベル)で決まると言っても過言では無いでしょう。

以前、「デザインは世の中のあらゆるものに存在するのです」というような当たり前な事を素人に向って仰々しく語るプロが目立つという記事を書きましたが、「作るプロ(職業)」というだけで、一般の人達を見下すようなクリエイターの馬鹿にした態度がとても気になるのです。

僕の記事を取り上げてくださった方は、そういった部分でも同じ感覚を持っているようで、「デザインの素人なんていない」という記事も書かれていました。このブログにも「素人はデザインの存在など解っていない/人がデザインしているなんていう意識など無い」という決めつけ的コメントが寄せられたりしましたが、確かにそういう人が居ないとは言い切れません。しかし、そんなレベルの低い人達に対してしかプロ面で威張れないようでは、そもそもプロである価値などありません。

僕が、外に出てクオリティの高いものに触れ、客として体験すること(その時間)を何よりも大切にしているのは、そこにすべてが有り、ものづくりの精神と、その「理由」が存在するからです。一方、どこにも行かず、体験もせず、作業的な事ばかりしているようなクリエイターたちは、頭の中で理屈ばかり考えています。良いデザインとは・・・そんな定義なんか、ただの空想的マニュアル作りじゃないですか。マニュアルなんて、読めば理解できたような気になるものだし、誰にでも受け売りは可能です。どこかの教科書にすでに載っているような定義をブログで書いてるだけの自己満足系。そんな事をしている間にも、堪能のプロたち(クリエイターたちは彼らの事を「素人」扱い)は、実体験として多くを吸収している。

「お客様のために」などと言いながら、調査やデータに頼るだけだったり、セミナーを開けば良いと思っている。結局問題点は放ったらかしだし、そのセミナーは当然お客様抜き・・・そんなベテラン達が、そのやり方に何の疑問も抱かないのだから、この先業界を悪くする一方だと思う。問題だと思わないことが問題。若くしてこんなことをしっかり考えられる人も居るのに。

関連記事:
DESIGNER'S SENSE?
言葉にできないこと


先日の「言葉にできないこと」というエントリーで、「人が言葉で書き表せる程度のデータに頼るような機械的リサーチャーであってはいけない」というような事を書きましたが、そのすぐ後に、ブログ村でそれに対抗するかのようなエントリーを見かけました・・・偶然かも知れませんが、こういった事はよくあるので、今更驚きませんが。

その方は、アンケートを事細かに取り、それに潜む「ユーザーのデータ」を重んじ、暇さえあれば読み、眠っていても夢にも出るほど「想像」するのだそうです。そして「そうしてから、紙の上での作業となる」そうですが、アンケートも紙の上の事でしか無いですけど?(笑)僕はむしろ「想像だけではいけない」と日頃から唱えています。想像してる暇があるなら、実際に自分で様々な人の生活を体感すべきです。そうすれば、アンケートで言葉に置き換えられる事以上の大切な事が、具体的に自分の中で解るのです。夢の中でさえクライアントを想い想像する情熱があるのなら、そのクライアントが大切にしている「理想的な生活」を自分が先立って体感し、知るべきじゃないですか。その人にとっては「作業」をする前に「アンケートを元に、これほどまでに想像をめぐらせて考えるのです」と言いたいのでしょうが、僕が思うところは「アンケートや想像だけではダメ」ですから、もしその記事が対抗的に投稿されたとしたら,全くプロットが読めないその感性で「想像する」という、お粗末さを露呈しているようなものです。エントリーの締めくくりは「ちょうどシナリオ作家が、キャラクター設定表を読み返すように、私たちにとってユーザーをどう把握するかが、重要な要素と言えるからである。」というものでしたが、「設定を読み返して把握する」なんていう最低限な当たり前な事を、そんなに得意げに言わなくても・・・。結局それは「データをもとに想像するだけで済ませてます」という説明でしかありません。「様々なユーザーが大切にする価値(物理的なものではなく、その物を通して生まれる時間的価値)を、自分も日々追究しながら暮らすようにしています。」というのなら解るのですが・・・。データ調査は有効ですが、それで想像するだけでは全く不十分なのです。想像なんてただの妄想とあまり変わりません。

アンケートの答えに対してパターンを振り分けて結果を調合するだけなら、機械にも出来る仕事です。

それにしても、物としてのデザイン、構造としてのデザインを、ブログで語るデザイナーばかりで、そういった物によって「こんなに素敵な生活を送っています」「こんな素敵な時間を過ごしています」という自らの生活で提案している者がほとんど居ない。それでいて「(デザインで豊かな生活を)与えてやる」って何?それ自体「空想」でしょうか。

ビリー・ジョエルが言うからこそ伝わる説得力ある言葉。しかし日本のCMで伝えられたコピーは全く訳されていませんでした。あらためてYouTubeで見て愕然としました。

(画像の後のコピーが直訳。)


人生の情熱
音楽の力は体の中を流れ
インスピレーションを与える
生きていくために

The passion of life
The power of music flows through us
And inspires us
To carry on




愛や音楽なしの人生
それも存在するかもしれない
でも生きているとは言えない

Life without love or music
Might be an Existance
But it wouldn't be living


日本人が翻訳により受け取っている非日本語圏の情報の質って、こんなもの。
質を下げる者は誰か。きっと反省などしない。

森林浴に行って来ました。偶然、紫陽花が咲き乱れている道があったので撮影しました。友達に「どこに出かけたい?」と訊かれると「山の自然の中」とつい答えてしまいます。静かな自然の中に身を置くと、生物としてのパワーが補充されるような気持になるのです。

これを「行ったつもり」と想像するだけで同じものを得られるはずがありません。行った人の感想を聞くだけでも勿論ダメです。「行きたいと思わずにはいられないのである(←偉そうな文体)」でも全然ダメ(笑)

昨日のエントリーで書いた「ユーザーのニーズさえ調査すれば、体験する必要などないのですよ。(このアドバイス)参考になりましたか?」みたいな書き込みを見つけた時は本当に言葉を失いました。

あるところに、こんな文章がありました:

>一番難しいポイントは、顧客がそれを普段から意識している
>わけではないというところで、たとえ、顧客にインタビュー
>したとしても、「なんとなく」「好きだから」「便利だから」
>「格好よいから」「知人に薦められたから」と言うような答え
>が返ってくる場合がほとんどです。それは、決して隠している
>わけではなく、よほど意識して購買している製品やサービス
>以外は、そういう感覚で財布を開いている。それが現状だ。

これも顧客にインタビュー、つまり単なる調査ですよね。人が言葉で表せる事ってそんなに広くも正確でもありません、特に日本人は欧米人に比べて、言葉で感情を的確に、そして豊かに表現する習慣がありません。たとえ理由があっても「なんとなく」と言ってみたり、「どうせただのアンケートだから」と適当な言葉を選ぶ人も少なくないでしょう。実際、アンケート用紙などには「なんとなく」「好きだから」「便利だから」「格好よいから」「知人に薦められたから」みたいな選択肢に○をつけるだけのものも多く、わざわざ「その他」の欄に事細かに書き表す人は圧倒的に少ないと思います。しかしそれを「何も考えていない」と決めつけるのは、それこそ何も考えてない機械的リサーチャーのする事だなと思います。

以前もどこかで書きましたが、たとえ一般の人達がデザインについてちゃんと理論的に説明する事ができなくても、解っていないわけではありません。言葉に表せなくても、人が感覚的に感じているクオリティはハッキリ存在するものです。アンケートの答えを鵜呑みにする事、そして言葉で表せる事がすべてという考え方自体がおかしく、人々の感性をひどく馬鹿にしていると思います。無意識という意識も存在するのです。

生活の中にあらゆる良いものを求める人達。そんな人達の事を知りたいければ、そういう人達と同じ行動をして共感すれば、答えはすべて自分の感覚の中に見つけることができる。まずは嘘の無い誠実な人間であるべきです。豊かな生活者としての経験と感性を持っていない者達が、人のための物づくりなんて・・・。

言葉にできないものを形にして魅せるのがクリエイターの仕事じゃないのか?

過去のエントリー「魂を失わずにデザイナーになる本」より:
"自分より感性豊かな人達の存在は「ティボールは、自分より鋭いクライアントしか引き受けない、と言っていた(クライアントはデザインについて鋭い必要はないことを、覚えておこう)」という文章でも明らかで、サグマイスター氏も「教育しなければならないクライアントよりも、すでに教育されたクライアントを持とうと決めた。自分より鋭いクライアントしか引き受けない。」と語っている。それは僕のポリシーとも一致する。自分の周りにいる人達のレベルが自分のレベルであると意識するから、より高いレベルの人達と共鳴して、より高いクオリティを目指したいと思う。「クライアントはデザインについて鋭い必要はないことを、覚えておこう」というのは、自分がデザインが出来るからといって、自分が彼らより偉いわけではなく、知識・経験・感性・価値観など、より高いものを持っている人達の存在を意味している。"

フランス料理でランチをしました。メニューには「前菜・メインコース(肉か魚の選択)・デザート」の3品という簡単なコースしか無かったのですが、アラカルトからの追加でフルコースに仕立ててもらいました。

●シャンペン
●ロゼワイン
●パン
●前菜(花ズッキーニの野菜詰めとあさりの蒸し物)
●スープ(ヴィシソワーズ)
●魚料理(海老・帆立・夏野菜)
●肉料理(子羊の薫製・ラタトゥーイ・じゃがいものキッシュ)
●ラヴェンダー風味のクレーム・ブリュレ
●コーヒー


いつもはデザートの前にチーズコースをオーダーするのですが、今回は前菜からヴォリュームたっぷりだった(もっと簡単な料理を想像してオーダーした)ので満腹で、やめておきました。いつもは残りのワインをチーズと共に楽しむのです。プロヴァンスから取り寄せたというオリーヴの盛り合わせ(かなりたっぷり!)を、お店がサーヴィスで出してくれました。何という心遣い!(ホスピタリティ(笑))

「滅多に出ないこんなアラカルトを色々オーダーするのは誰?」と思ったのか、ヘッド・シェフが挨拶に出て来てくれました(笑)帰りも見送ってくれました・・・今日の一番良い客だったのかもしれません。

ビデオの冒頭と終わりに流れる風のオブジェは、大きな窓の外にあった「Wind Musical Note(風の音符)」という作品でした。グラスやボトル、食器の美しさと、お店の美しい演出と、創造性にあふれる美味しい料理。それらはすべて、人の時間のため。

物ではなく、人とその時間の質こそ最も重んじるべきものだと思っています。「ユーザーのニーズさえ調査すれば、体験する必要などないのですよ」なんていう自分の作業視点でしかない者達が世の中を悪くする。ブログで「デザインって素晴らしいですよぉ」とか「新しく出た○○商品は良いですよぉ(自分は買ってないけど)」と言う人達自身の、日々のクオリティはどうなってる?人々の一人として、時間の質、一日の質、重んじてますか。


今日はいつものOUTBACKに食事に行きました。OUTBACKはどの店舗もインテリアが統一されていて、いつも行く店がCMの中の店と全く同じ場所に見えるほどです。灯りも優しく、日本のレストラン独特のあの眩しさはありません。椅子もテーブルも、とても厚みのある木を使用していて、自然の木目を活かしたカントリー調。どこかのデザイン系のブログで「日本人ほど木目を愛し、木を生活に取り入れている国民は居ません」(←もうお決まりのパターンですね)という事を書いていた人を見かけましたが、僕はそうは思いません。日本で築50年とかの家ってほとんど見ないし、どんどん建て替え、どんどん捨ててる国という印象があります。昔の家は確かに木が中心でしたが、そんな家って残って居ないでしょう。一方、欧米だと築100年、200年なんて家は決して珍しくはありません。家具も古いものをそのまま使っていたりして、良い物を修繕(←リノベーション(笑)?)しながら大切に使う習慣があります。
過去記事より「LIVING FOR THE CITY」
日本人の「希望的」思い込み。これが根強くあるうちは、現状を認め、問題点を改善して行く事など出来ないのだろうなと思います。

店に向う車の中で、アメリカ人の友達との会話(もちろん英語)。

「そういえば新聞に『昨今の日本人は妙な英語を日本語に混ぜて使い過ぎる』と書かれた(アメリカ人記者による)コラムが載ってたよ。」
「えっ!それ、ちょうど昨日のブログで書いたところだよ!」
「『アイ・アム・ゴォイング・トウ・ザ・スクゥル』みたいな感じ?」
「そうじゃなくて単語だけ。文法は奴らは苦手で書けないの(笑)」
「ハハハ(爆笑)」
「で、さらに変なのは、英語にする単語としない単語があって、全くルールが無いってこと。自分が解る単語だけカタカナにしたいだけみたい。でも当然、意味が解らない人達も大勢いるわけで、それでもカタカナで『"ユーザビリティ"は大事です』とか『お客様のための"ホスピタリティ"』なんて言ってるから、全く矛盾してるわけ。」
「『フォー・ユア・ジャスト』なんてのもあったよね。ちょうど何?(笑)」
「でも『これはクリエイティヴな造語ですから』みたいに逃げるんだよ。全くどうかしてる。それから、カタカナの英語と、アルファベットの英語と、日本語が、一文の中にデタラメに並んでて、もう言葉めちゃめちゃになってる。英語使いたいのなら全部英語にしちまえ〜!っていつも言ってるんだよ。ただし文法もね(笑)」

そんな良い例を見つけました。


「残念券を集めてCHANCE!」
なんで「チャンス」じゃなく「CHANCE」?「残念券」「集める」は英語でもカタカナでも無い。訳せなかったから?(笑)

「海外もOKのBIG SIZE」
「ビッグサイズ」じゃなく「BIG SIZE」なのは何故?「海外もOK」は英語で何と言うか知らないとか(笑)

「今すぐORDER」
「今すぐ」は英語じゃ無いのに、ORDERだけ「オーダー」ではなくアルファベット?「今すぐご注文を!」とか「ORDER NOW!」じゃない理由は?

「さあ!メダルをGET! LET'S TRY」
「メダル」は「MEDAL」じゃないんだ?でも「ゲット」は「GET」?!
さらに「Let's Try」って?「Let's」は「Let us」のことですから、提案者(店員?)も一緒にやってみるって事になってしまいますけど?


「Bottle Price \650 税込\682」
「Bottle Price」だけ英語で「税込み」は英語でもカタカナでも無いのね。

頭痛くなって来ます・・・こんな広告に見慣れてしまっていませんか?デザイン・コンセプトとか「シンプル・イズ・ベスト」なんて言う以前に、法則も無く全く整理されてませんけど。こういう事を書いても、当のクリエイターたちは全く気にもとめません。自分達がやってる事を説明出来なくて気持悪く無いのかなぁ。デザインとは洗練し、整理することですよ?これはデザインとは言えません。

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