WAS KING OF POP STOIC?

さて、「ストイック」というカタカナ言葉が気になって、家にいるアメリカ人に、ネイティヴは「stoic」という言葉は使うのかと訊いてみた。まず「う〜ん、古い言葉だから辞書を引いてみないと・・・」という返事が帰って来た。この時点で、すでに「普段よく使われている言葉ではない」という察しはついた。「古い言葉」というから30〜40年ぐらい前とかに流行った言葉で、今はもう使われていない言葉なのかと思い「どれぐらい古いの?」と尋ねると、「ギリシャ時代」だという。(英語の"Thursday"や"Friday"なども古代ギリシャ時代の神話が語源だという・・・現在の英語が出来る前の時代の言葉なんだ・・・。)

取りあえず、なぜ自分がそんな質問をしているのか伝えるために、「日本では『自分を厳しく規制し、楽をしない』とか『自分に厳しく、まわりからは硬派といわれるような生き方』とか『禁欲主義』という意味で使われているらしいけど、いまひとつピンと来ない」と伝えた。すると、そういう意味じゃなく、一言で言うなら「no emotion(無感情)」の事だと教えてくれた。ギリシャ時代の哲学で、怒ったり、笑ったり、喜んだり、感動したりもせず、気持を平坦に保てば長生きする事が出来るというものだそうだ。

無表情・無感情・無感動」・・・カタカナの「ストイック」の意味はやはり掛け離れている。そもそもこの「stoic」という英単語が自分の英語での生活の中の会話に出て来た覚えが無い。「マイケル・ジャクソンの百分の一でもいいから、自分にストイックに、作品にこだわって取組んでみよう」というのは、やはり意味不明・・・こだわったり取り組んだりする「ストイック」なんて有り得ない。ちなみに「マイケル・ジャクソンみたいにストイックに」と言っているクリエイターが居たと(前のエントリーの事を)話をしたら、「一体マイケルのどこがストイックなんだ!?」と大笑いされてしまった。




言うまでもなく、英語で検索して出て来る画像と、カタカナで検索して出て来る画像の性質は全く違う。画像で見ると、この違いの原因は一体何なのかと、悲しくなってくる・・・。どうしたら、この「でたらめ文化」を直して行けるだろうか?

関連記事:「テンション低いです」とか

「ストイック」?



今回はとても秋らしい色彩溢れるビデオになりました。もの作りに携わる人間として、やっぱり家から出ないと駄目ですね。あ、もちろん家の中に人を招いて彩りのある時間を持つ事も同じぐらいに大事ですけど。今回はフランスで6年間(パリの三ツ星レストランなど13軒で)修行し、有名ホテルの総料理長を務めたシェフのお店に伺いました。自分はフランスに行かずとも、フランス仕込みの感性を頂くために足を運ぶというのは最低限必要な「旅」ですね。

最近つくづく思うのは、クリエイターたちがまるで「外付けハードディスク脳」みたいに、自分の体の中に蓄えた経験や知識ではなく、ネット上から拾って来ただけの情報をまとめるだけで「プロの自分がお伝えしています。参考になりましたか?」みたいな、読む人を馬鹿にしたような事が、当たり前のようになっているという事。そういうブログは読んですぐに筆者の「自身の無さ」が解る。経験の中で自分の言葉となっているのではなく、言葉や情報を拾って来ているだけで、筆者はそれを選んでいるだけ。そういうブログには当然、人を引きつけるパワーは無く、むしろ誰もコメントを付けないそのブログの見えない「お客様」に筆者が「皆様のお陰」などとお礼を言う一人芝居をし、「継続は力」なんて言葉で締めくくる。大概そういう人は自分で自分を評価するためにそんな言葉を使いたがる。そうじゃなく、人から言われてこそ本物ではないだろうか?気がつけば、僕は「継続は力」なんて言葉を、このブログでは一度も使っていない。念のために、ブログ内検索で「継続は力」と入れて調べてみたけど、やはり4年半の間、一度もそんな言葉は使っていない事が解った。

「継続は力」なんて当たり前で、その力はちゃんと結果という形で表して、周りの人から言われるようでなければ何の意味も無く、ただの「続けてる自分って立派でしょ?」的なアピールでしか無い。

話は全く変わってしまうけれど、「一度も使った事が無い言葉」で思い出しました。デザイン・ブログ村で、MJの「THIS IS IT」を観たというクリエイターがブログで「明日から彼の百分の一でもいいから、自分にストイックに、作品にこだわって取組んでみよう」と書いているのを見て、「ストイック」というカタカナを僕はこれまで一度も使った事が無いという事に気付きました。カタカナ言葉としてはよく耳にはするけれど、意味がピンと来なかった。こんな質問サイトがあり、最後のほうでは「自分を厳しく規制し、楽をしない」とか「自分に厳しく、まわりからは硬派といわれるような生き方」なんてところに落ち着いてしまっていますが、辞書では(これも初めて引きました)「1.(Stoic)ストア学派の哲学者。2.ストア学派風の克己禁欲主義・厳粛主義を信奉する人。」とあり、つまりは「禁欲主義な人」という事なのかもしれないけれど、どうしてカタカナにしてボカす必要があるのか解らないし、もうそれ自体、自分に厳しい人がする事じゃないですよねぇ(笑)

MJは意欲的な人だったけど、禁欲的だったかどうかは疑問。それに僕みたいに美食を楽しむ人は「禁欲」とは全く逆なものとして扱われそうな気がするし、むしろ「どこにも出かけないで、美味しいものも食べないで、閉じこもって仕事するのが禁欲」みたいに捉えられないだろうかと心配になる。だとしたら「ストイック」というカタカナ語は、そういう引きこもってマウスを動かしてるだけのクリエイターには最高の慰め言葉になるのかなと思う。

しかし実際は、外にも出ず、閉じこもって仕事に取り組むだけの人は、人々が感動するものを一緒に体感する事もなく、一流を極めたシェフの精神を味わう事もなく、時間的自己管理の出来なさや、収入(安定)への固執など、そういうのは「己への厳しさ」とか「禁欲」とはとは正反対な気がするのだけど・・・。

関連記事:提案できないクリエイターたち

"NO MUSIC, NO MY LIFE"(帰省篇)

さて、駆け足で過ぎ去った帰省。

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家の近くのショッピングセンターで撮影。2mぐらいの壁です。デザインした人、恥ずかしい。良い絵とか良いデザインとか言う以前の問題。それにしても誰も気付かなかったのか?(関連記事:LET'S COOKING

最近、「No music, No whisky」なんてコピーがあるらしいですね・・・これも何だかなぁな感じです。「No music, No life」は「音楽が無い人生なんて有り得ない」という意味で良いコピーだと思いましたが、「No music, No whisky」では「音楽が無いのなら、ウィスキーもやめときましょう」にしか聞こえない。タワーレコーズとサントリーの「コラボレーション」だそうですが、これまた安易で阿呆丸出しなコピーですね。悲しくなりました。「No 〜, No 〜」の流用コピーは、もういい加減やめて欲しいです。以前「No music, No my life」なんていうヘンテコな変形コピーをどこかで見かけたのですが、僕の仲間内ではお笑いネタになってます。検索したら出て来る出て来る!「No music my life nothing」なんていう、でたらめ文法系まで(笑)

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2夜連続で「さと」で、しゃぶしゃぶ食べ放題!本当は寿司を食べに行く予定でしたが、今週は寒い日が続いたので、体が温まる鍋で大正解でした。別の友達に話したら行きたいとのことで、2夜連続となりました。僕としては毎日でもいい!って感じです(笑)30品目の中から、好きなものを好きなだけ注文して、1980円。

前から気になっているんですが「さと」って、「と」ですか?それとも「さ」(里)?僕は普段「と」と発音しているのですが・・・

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足柄サービスエリア(上り線)に居た野良猫ちゃんたち(以前は居ませんでした)。美しいミルクティー色で、ブルーの瞳(眼の病気も無し)。もしかしてサービスエリアに捨てられた猫?同じミルクティー色のがもう一匹と、虎模様のが一匹居ました。

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クローズアップの写真を撮ろうと思ってしゃがむと、寒いので温かい人の股の間に入って来てしまうため、上からのショットになってしまいました。足柄サービスエリアの、売店とトイレの間に住んでるみたいです。これから雪が降る季節が来るのに、可哀想・・・誰か、里親になってあげてください!

静岡からです



帰省中です。今回もいつものようにアメリカのTVを録り集めたDVDを沢山持参。読む時間が無くてストックしておいたアメリカの雑誌も5〜6冊持参。帰省しても地元のTVを観る事はほとんどありませんが、食事の時間にいつもTVがついている(←典型的日本の家庭かもしれませんね〜)ので、TV番組やCMのクオリティの格差におけるショックから完全に逃れられるわけではないですが(笑)。普段、日本のTV番組や広告の酷さを語る時、首都圏基準で語っているので、ここ静岡のようなローカルのクオリティとなると・・・むしろ東京発信のものが「素晴らしい」とさえ思えてしまう程です(汗) 

ここで暮らしていた頃は、「東京のCMが見れない。クオリティが遮断されている」と感じたものですが、今は日本人達の「日本のものしか見れない状況」を懸念せずにはいられません。何かを見ている間、何かを見れていないのです。それが日常ともなると、必ず、見れている人達と見れていない人達との間に、感性的格差が生じるはずです。それが「良いものを見れている素人」と「良いものを見れていない物作りのプロ」であれば、それはとても深刻な事であり、その格差にさえ気づかずにデザイナーとかクリエイターという肩書きだけで「素人には解らないでしょうが」「世の中はデザインであふれているのですよ」なんて語ってしまう人達で現場が埋め尽くされている。

さて、アクセス解析を見たら「日本の広告の良さ」という検索ワードでたどり着いている方がいたので、そのページを見てみました(下に再掲載しますね)。日本の広告の良さは何かなんて意識した事はありませんでしたが、強いて言えば「日本の広告の悪いところをすべて無くしたもの」であれば良い広告なのではないかと思います。それぐらい酷いものだらけだと思うというのが僕の見解です。感動できるものが極めて少ない。稀にあったとしても、それが「日本らしさ」であるとも思えない。

海外の人達から「日本の広告は素晴らしい!」と絶賛されるようなものを発信し続けているのならともかく、「日本の広告の良さ」なんていう、自画自賛のような言葉探しは、いかにも日本人的だと僕は感じます。本来、プロとして「これではいけない(こんなレベルではいけない)」と言うべき立場の人達が「これで良いんです」という言葉ばかり言い、その言葉を探すというのはどういう状態を表しているのか。

関連記事:
「日本のバラエティ番組が世界でひっぱりだこという嘘」
「日本人の妙な自己満足的思考」
「日本人が足りない!?」

以下、2008年1月の記事より----------------------------------------------------

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「形跡は物語る」という「CSI」の番組広告。アルファベットの札が「ここで殺されたのではない」というメッセージになってますね。

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「平和に運転」という保険会社の広告。侵入レーンは衝突事故を防ぐ形になってますね。そして全体が平和マークになってます。

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こちらも同じ保険会社の広告。車が衝突したかのように、ページの端がグチャグチャになってます。

僕は欧米の雑誌広告は大好きです。写真はそれだけで美しいし、メッセージはウィットに富んでいるし、デザインも上品で、日本の広告のようにでかい文字、派手な色、やたら沢山のメッセージを詰め込むというような低次元な見せ方はしないからです。

そんな広告が沢山見れるというだけで欧米の雑誌はワクワクしてしまう僕ですが、家のハウスホストさんは雑誌が届くと(日本とちがって、欧米では定期購読で送られて来るというのが一般的。値段も10分の1ぐらいだったりします。)すぐに、広告ページを破る作業に取り掛かり、記事以外のページはすべて捨ててしまいます。僕としては何だか勿体無い気持ちでいっぱいです。

TVのコマーシャルもそう。コマーシャルに差し掛かると音声をミュートにして家族や友達との会話の時間に切り替わります。録画したものの場合は必ずCMスキップです。僕としてはCMも観たい派なんですが・・・(ちなみに日本のCMは大嫌いです・笑)たまに凄いCMがあると音声を戻して「このCMスゴイよね」なんて会話にはなりますが、そこまで視聴者に思わせるCMじゃない限り、CMってほとんど「うるさい存在」なんですよね・・・昨日のエントリーの駅のホームの広告の話に通じるところがあります。

美意識の問題なのでしょうね。美しい広告・感動する広告じゃないと訴える力は無いという、厳しい一般人の意識が一層広告のクオリティを高めているのかもしれません。日本では出ているタレントだけで話題になってしまうので、作る側もタレントを出せば良いという堕落した世界になってしまっています。タレントが出ていないTVコマーシャルを見つけるほうが難しいぐらいです。情けないです。

STUPIDITY

以前から述べてますが、僕は余程の事が無い限り英語の辞書を引かない人間です。決してそう決めているというのではなく、自然とそういう習慣になりました。元々、僕は暗記という物が大嫌いで、英語を教科書や単語帳などを使って勉強しても全く身に付かないので、会話の中で知らない単語が出て来ても、全体から意味を推測して、その後も結局辞書を引かずに、そのままにしてしまうという、ある意味とても「ずぼら」で大まかな人間かもしれません。暗記してもすぐ忘れるから「無駄な事は最初からしない」と自分では思っているんですが(笑)

特に意味を知りたい単語があれば、家にいるアメリカ人に訊きます。もちろん返って来るのは英語での説明ですが、それだけで事足りています。iPhoneアプリケーションでこんな英英辞書がありますが、これはまさにそんな感覚です。これなら視覚からも入って来ますし、より「感覚的に理解」することができるのではないでしょうか。

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高校時代に伯父から初めて英英辞典をもらった時「英語の意味を知りたいのに、英語で説明されても・・・」と敬遠して全く開きませんでしたが、英語だけで生活していると、むしろ英英のほうがすんなり受け入れられる気がします。英和だと説明というよりも日本語への「置き換え」という感じで、違和感がある。というのも、意味が限定され過ぎていたり、逆に全然違う意味合いの単語が沢山並んでいたりして、結局どの意味が一番近いのか解らなかったりする。ネイティヴに「これってどういう意味?」と訊くと、最も一般的な意味を別の言葉で簡単に説明してくれる(余計に訳解らなくなるような、余分な意味まで説明したりしない)し、何よりも英語脳から日本語脳に切り替えなくても、英語脳のままで居られるというのが「英語で説明されているのにもかかわらず、すんなり理解できる理由」なのかもしれません。(例:"affordance"

理想はやはり会話の中で自然に覚えて行くこと。日本人の子供だって、日本語を会話の中から学び、決して最初から辞書を引いたり暗記してから使うわけじゃないし。いつ使うか解らないような英単語をあらかじめ叩き込んだって、使わないうちに忘れます(あ、僕だけかもしれませんが!)

「テンション」とか「モチベーション」なんて、本来の英語での使い方も解らないのにカタカナ単語だけで覚えたが故の言葉の公害でしょう。大の大人が「テンションあげて行かなければ」なんて言ってるのを目撃してしまうと恥ずかしい、そして残念。

もうひとつ、ネイティヴに直接訊くことで勉強になるのは「こんな言い回しってする?」と気軽に確認できる事です。日本人が作るデザインにありがちな「単語も文法も間違ってはいないけど、そんな言い方はしない」という事まで、すぐに解ります。もっとも、見つけてしまうのは、単語や文法が間違っているものばかりですが・・・(;´д` )

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「"b"の逆はどうやったの?」「それは"d"という文字です」

[STUPIDITY]

この単語、もしかしたら自分が勝手に使っている造語かも?なんて思いながら使っていましたが、今日念のためにこの単語を検索したら結構出て来て安心しました(笑)「愚かな」という形容詞での「stupid」はよく言いますが、「愚かさ」と言いたい時に、自分の口を突いて出て来た「stupidity」という単語を、教わったわけでも無く、辞書を引いた訳でも無く使っていました。

どうして会話の中でこの言葉が出て来たかというと、居間でモバイル端末でデザイン某ブログ村を見ていたら、またまた「ライフハック」と「GTD」について書いている人がいたので、ネイティヴに「GTDって知ってる?」と尋ねたところ、あっさり「何だそりゃ。知らん」みたいな返事が返って来ました。まぁ、知らなくて当たり前なので、日本人の業界人ぶってる人達がいかに「優れた仕事術」みたいにもてはやして使っている英単語だという事を教えてあげました。そしてその馬鹿さ加減を笑いました(笑)英語の生活では「Get things done(片付けてしましょう)」は普通の言葉だし、わざわざ「GTD」なんて略さない。なんとか博士が唱えたのは、その片付けるためのひとつのヒントに過ぎない。「ライフハック(笑)」という過去記事はこちら。

なんでも、その記事を書いていた人によると、 3時間位かけて頭に浮かぶ事すべて紙に書く事によって、やらなければならない事が見えて来るのだそうです。3時間ですか!勿体ない!ライフハックって「さっくり済ます」んじゃなかったのか?!(笑)出来る人ならすべて頭の中で整理出来ているであろうに。そんな「GTDで出来ちゃいました」なんて言う次元の事なんて、その程度の事でしか無いでしょうね。むしろその成果を仕事の結果でドカンと見せてくれれば良いのに。

書き上げなければ出来ないという人が、書き上げれば出来るというのなら、まぁやれば良いでしょう。しかし「必要な英語力と、無駄なカタカナ英語」という記事で書いたように、日本語でピントが合っていた言葉を、わざわざ英単語にして、それをカタカナ言葉にして、さらに略して、その過程をすべて逆戻しにして日本語で説明して、訳わからなくなった状態にしたものを「この薬は効く!」なんてのは、単なるガマの油信仰者(「馬鹿が治る薬」で「治った」と自己申告してる人)に見えて、傍から冷静にみると「一体何やってるんだか」と思えてしまうんですよねぇ・・・。そういう人達はカタカナをすべて日本語で書き出すほうが見えて来るのではないだろうか?

「ロハス」はどうなった?!(笑)

関連記事:世界から笑われる

精神と創造性

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MJ最後の世界ツアーとなった「HISTORY TOUR」のツアー・ブックとバックステージ・パス。

未だに「THIS IS IT」の余韻が冷めやらず。あの現場の精神と創造性の凄さが、心の中に蘇ったからでしょう。舞台裏であのスタッフたちと過ごした時の胸の高鳴り再びといった感じです。「時空が違う」と前の記事で書きましたが、あれが仕事なら誰もが「やりたくて仕方が無い」という気持になれるのは当然ですよね。人は皆、自分がやりたい仕事を自分で決めてやっているはずなのに、どうして文句ばかり言ったり、最高なものを作れる環境を一番に大切にせず「時間が無い」を言い訳にするような事が平気で出来てしまうのでしょうか。そこには精神も真の創造性も存在しないのは当然です。もしもあの「THIS IS IT」の現場で、そんな甘さや自己矛盾があれば、即、退場を命じられるでしょう(というか、そもそもそんな人材は選ばれる事すら無いでしょう)。

時間が無いというのは自分のいい加減さによって追い込められる「厳しい状況」であり、自分の「創造への厳しさ」ではありません。勘違いして苦しい状況を自慢しちゃってる人、多くないですか?ものを作り出す人なら、もの作りに最適な環境から自ら作り出すべきでしょう。それが本当の「良いものを作り出す」という土台です。

クリエイターなら絶対に「THIS IS IT」を観るべきです。必ず多くを学べるはずです。例えば、地球の裏側から急いで駆けつけてオーディションに臨んだダンサーなど、その燃える情熱に感銘を受けるでしょうし、その数の多さを見れば、本物しか生き残れない厳しさが解るでしょう。「うまい人は大勢いる、でも華(ひときわ輝くもの)がなければ駄目」という世界です。これ(クリック)で良しとしている人達は、その眼力からすでに駄目ですね。

デザイン・ブログ村で「マイケル・ジャクソン "This is it" - 今日から使える"with love"」というタイトルの記事を書いている人が居ました。

>劇中でマイケルがスタッフに対して苛っとする場面がある。
>スタッフに対しておこり口調でクレームをつけるような場面
>なんですが、「いや、ごめん怒っているわけじゃないんだ 
>with loveだから with love。理解してね」と。

これは使える。
>怒られてるほうも with loveだから、なんて言われると飲み
>込めるよね。
>私も今日から家庭で「with love」を使っていこうと思います。
>そこに愛があるのか無いのか。。。大事なことです。^^

>あなたも今日から「with love」使ってみませんか?

これって「ライフハック(笑)」の記事で書いた「GTD(Getting Things Done)は使える」と同じじゃないですかね。「Getting Things Done」も「With Love」も、彼らは自分達の言語ではない外国語を用いて語っているわけではなく、本当の自分の言葉で表しているんですよ?日本語で話してて急に「with love(またはウィズ・ラヴ)だからね」なんてボカシを入れる必要あるんですか?人に伝えるのにですよ?冗談にしか聞こえません。本当にこれが「THIS IS IT」を観てのクリエイターしての見解なのだろうか・・・

また「あなたも今日から使ってみませんか?」って、コレと全く同じパターンでしょう?

どちらにも共通するのは、精神の無さです。「こうすりゃかうまくこなせる」という手段を参考書に求めるのと同じ。本物の精神なしに、自分のメリットの為だけにそんな形式を当てはめたって駄目に決まってます。

「THIS IS IT」の事とは離れますが、「大物」に関するこんな見解の記事も見かけました:

>よくグラフィックデザイン界の、
>御大達の制作ドキュメントなんかを読んでいると、
>クライアントとの意向や希望、狙いや目論見などに
>ついて、それほど大きなスペースを割いていない。

>つまり、
>依頼された案件についてクライアントはどうしたいか?
>ということについて、それほど詳しく書かれていない
>ような気がするのだ。
>むしろそこに記されているのは、クライアントと社会
>の関係についてであり、それが為にクライアントは、
>どう考え向き合うべきか?ということが語られているのだ。

>そして、それに伴って世の中へ対して自分自身からの
>メッセージも多く語られている…
>ゆえに、「仕事」を「作品」と言い得るのだろう。

>残念ながら、
>この日本でグラフィックデザイナーという職業に従事
>している、私も含めた多くの人々は、
>社会や世の中へ対して、自分がどうあるべきか?まで
>ゆっくり考えている時間がない。

>考えていたとしても、それを自分の仕事に反映させる
>だけの余裕がないのが現実なのだ。

>御大達は、まあ仕事はある。それなりの地位も確保した。
>じゃあ、ひとつ説教でもするか…と考えてるに違いない・・・
>と、斜めにかまえて見ることもできる。

>て、いうかあ、実際はぁ・・・みんなそう思ってるじゃん!

思ってません(笑)(地位を築き上げる人は)最初から考え方(視野)が広く、全体像に基づいて行動をするからこそ、大物になれるのだということが解っていないようですね。全体像も見えないまま、作業を進めるだけで精一杯な人達とは、根本的に違うのです。

大物が「クライアントとの意向や希望、狙いや目論見など」に重点を置かないのは、そういった戦略や目先の事は、先にも書いた「ライフハック(笑)」だの「GTD」だのと同じで、最終的な目的とは掛け離れた、自己満足的なごまかしに過ぎないからです。以前書いた「最終的な調和に興味の無いデザイナーなんて有り得ない」というのがまさにその事であって、どこに向うのかも解らないまま、先が見えずにただぶつからずに車を走らせ続ける事に必死になっているのと同じなのです。どこにも辿り着けない。

僕はよく「その人がどんな人であるかを知るには、周りにどんな人達がいるかを見れば解る」と言いますが、それはつまり「どんな考え方や精神を持って活動しているか」とか「どんな考えや才能を持った人達に共感されているか」という事です。大概、駄目な人は周りも駄目(また自分以下の素人)か、共感する人さえ居ないで彷徨っているかのどちらかです。自分の周りにすらレベルの高い調和が無く、その状態で作業をこなして行く。

そういう人達がアピールしたがるのは、目先の作業の方法論やカタカナでごまかしまくりの概念です→「遠回りをして難しい事をやっているふりをする人々」
最終的な事など語らず、いかに難しそうな事に取り組んでいるかというアピールばかりで、本当の成果や、自分や人々の精神の豊かさの事など絶対に語りません。

日本のクリエイターたちは口癖のように「自分にできるコト」と言いますが、そこから間違っている。だから「余裕がない」と言いつつ、出来る事しかやれないのです。

>考えていたとしても、それを自分の仕事に反映させる
>だけの余裕がないのが現実なのだ。

仕事に反映させるのが仕事なのに。
つまり仕事を始めてさえ居ないという事です。
作業をしているだけです。

人を感動させる本物の波動が無い。
形の良いものを取り上げて「良いデザインです」で終り。
「モノ・コト」と言うだけで終り。

LET'S COOKING!

ブログ村で「LET'S COOKING!」というトラックバック・コミュニティを見かけたので、嫌な予感がして検索して見たら・・・出て来る!出て来る!

letscooking3.jpg

まぁ、個人のブログ等での間違いならありがちですが、
中には出版社から出ているこんなシリーズ本や↓

letscooking1.jpg

大手企業のこんなサイトまで↓

letscooking2.jpg


「LET'S COOKING!」に違和感を抱かない人でも、「LET'S GOING!」になら違和感を感じるでしょう。正しくは「LET'S COOK!」「LET'S GO!」ですね。中学で習うようなこんな英語の初歩なのに、デザイナーさんたちは校正というものを行わないのでしょうか・・・というか、誰か気付けよ〜!って感じですが・・・(;´д` )「"LET'S COOKING"が一般的に広まってるので、これでも良いのですよ」なんていう開き直った言い訳が聞こえて来そうです。

関連記事:世界から笑われる

「編集手帳」

2週間前、電車の中で見かけた広告に感銘を受けました。日本の広告で感銘を受けるなんて、僕には滅多に無い衝撃でした。

henshutechou.jpg

  ひとの心を傷つけて
  喜ぶ心さびしき者に
  聞く耳はなかろうから、
  中傷された君に言う。
  蠅たちの集まりでは、
  蝶も「キモイ」と
  陰口を叩かれるだろう。
  心ない者たちのうちにも
  自分と同じ美しさを探しつつ、
  君はひとり、
  大人になればいい。

いじめ問題では「負けるな」とか「許さない」という、あり来たりな言葉で、タレントを起用した広告などありましたが、これほど説得力のある言葉はありませんでした。

人の人生をも変える広告かも知れませんね。
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