精神と創造性

MJtourbook.jpg
MJ最後の世界ツアーとなった「HISTORY TOUR」のツアー・ブックとバックステージ・パス。

未だに「THIS IS IT」の余韻が冷めやらず。あの現場の精神と創造性の凄さが、心の中に蘇ったからでしょう。舞台裏であのスタッフたちと過ごした時の胸の高鳴り再びといった感じです。「時空が違う」と前の記事で書きましたが、あれが仕事なら誰もが「やりたくて仕方が無い」という気持になれるのは当然ですよね。人は皆、自分がやりたい仕事を自分で決めてやっているはずなのに、どうして文句ばかり言ったり、最高なものを作れる環境を一番に大切にせず「時間が無い」を言い訳にするような事が平気で出来てしまうのでしょうか。そこには精神も真の創造性も存在しないのは当然です。もしもあの「THIS IS IT」の現場で、そんな甘さや自己矛盾があれば、即、退場を命じられるでしょう(というか、そもそもそんな人材は選ばれる事すら無いでしょう)。

時間が無いというのは自分のいい加減さによって追い込められる「厳しい状況」であり、自分の「創造への厳しさ」ではありません。勘違いして苦しい状況を自慢しちゃってる人、多くないですか?ものを作り出す人なら、もの作りに最適な環境から自ら作り出すべきでしょう。それが本当の「良いものを作り出す」という土台です。

クリエイターなら絶対に「THIS IS IT」を観るべきです。必ず多くを学べるはずです。例えば、地球の裏側から急いで駆けつけてオーディションに臨んだダンサーなど、その燃える情熱に感銘を受けるでしょうし、その数の多さを見れば、本物しか生き残れない厳しさが解るでしょう。「うまい人は大勢いる、でも華(ひときわ輝くもの)がなければ駄目」という世界です。これ(クリック)で良しとしている人達は、その眼力からすでに駄目ですね。

デザイン・ブログ村で「マイケル・ジャクソン "This is it" - 今日から使える"with love"」というタイトルの記事を書いている人が居ました。

>劇中でマイケルがスタッフに対して苛っとする場面がある。
>スタッフに対しておこり口調でクレームをつけるような場面
>なんですが、「いや、ごめん怒っているわけじゃないんだ 
>with loveだから with love。理解してね」と。

これは使える。
>怒られてるほうも with loveだから、なんて言われると飲み
>込めるよね。
>私も今日から家庭で「with love」を使っていこうと思います。
>そこに愛があるのか無いのか。。。大事なことです。^^

>あなたも今日から「with love」使ってみませんか?

これって「ライフハック(笑)」の記事で書いた「GTD(Getting Things Done)は使える」と同じじゃないですかね。「Getting Things Done」も「With Love」も、彼らは自分達の言語ではない外国語を用いて語っているわけではなく、本当の自分の言葉で表しているんですよ?日本語で話してて急に「with love(またはウィズ・ラヴ)だからね」なんてボカシを入れる必要あるんですか?人に伝えるのにですよ?冗談にしか聞こえません。本当にこれが「THIS IS IT」を観てのクリエイターしての見解なのだろうか・・・

また「あなたも今日から使ってみませんか?」って、コレと全く同じパターンでしょう?

どちらにも共通するのは、精神の無さです。「こうすりゃかうまくこなせる」という手段を参考書に求めるのと同じ。本物の精神なしに、自分のメリットの為だけにそんな形式を当てはめたって駄目に決まってます。

「THIS IS IT」の事とは離れますが、「大物」に関するこんな見解の記事も見かけました:

>よくグラフィックデザイン界の、
>御大達の制作ドキュメントなんかを読んでいると、
>クライアントとの意向や希望、狙いや目論見などに
>ついて、それほど大きなスペースを割いていない。

>つまり、
>依頼された案件についてクライアントはどうしたいか?
>ということについて、それほど詳しく書かれていない
>ような気がするのだ。
>むしろそこに記されているのは、クライアントと社会
>の関係についてであり、それが為にクライアントは、
>どう考え向き合うべきか?ということが語られているのだ。

>そして、それに伴って世の中へ対して自分自身からの
>メッセージも多く語られている…
>ゆえに、「仕事」を「作品」と言い得るのだろう。

>残念ながら、
>この日本でグラフィックデザイナーという職業に従事
>している、私も含めた多くの人々は、
>社会や世の中へ対して、自分がどうあるべきか?まで
>ゆっくり考えている時間がない。

>考えていたとしても、それを自分の仕事に反映させる
>だけの余裕がないのが現実なのだ。

>御大達は、まあ仕事はある。それなりの地位も確保した。
>じゃあ、ひとつ説教でもするか…と考えてるに違いない・・・
>と、斜めにかまえて見ることもできる。

>て、いうかあ、実際はぁ・・・みんなそう思ってるじゃん!

思ってません(笑)(地位を築き上げる人は)最初から考え方(視野)が広く、全体像に基づいて行動をするからこそ、大物になれるのだということが解っていないようですね。全体像も見えないまま、作業を進めるだけで精一杯な人達とは、根本的に違うのです。

大物が「クライアントとの意向や希望、狙いや目論見など」に重点を置かないのは、そういった戦略や目先の事は、先にも書いた「ライフハック(笑)」だの「GTD」だのと同じで、最終的な目的とは掛け離れた、自己満足的なごまかしに過ぎないからです。以前書いた「最終的な調和に興味の無いデザイナーなんて有り得ない」というのがまさにその事であって、どこに向うのかも解らないまま、先が見えずにただぶつからずに車を走らせ続ける事に必死になっているのと同じなのです。どこにも辿り着けない。

僕はよく「その人がどんな人であるかを知るには、周りにどんな人達がいるかを見れば解る」と言いますが、それはつまり「どんな考え方や精神を持って活動しているか」とか「どんな考えや才能を持った人達に共感されているか」という事です。大概、駄目な人は周りも駄目(また自分以下の素人)か、共感する人さえ居ないで彷徨っているかのどちらかです。自分の周りにすらレベルの高い調和が無く、その状態で作業をこなして行く。

そういう人達がアピールしたがるのは、目先の作業の方法論やカタカナでごまかしまくりの概念です→「遠回りをして難しい事をやっているふりをする人々」
最終的な事など語らず、いかに難しそうな事に取り組んでいるかというアピールばかりで、本当の成果や、自分や人々の精神の豊かさの事など絶対に語りません。

日本のクリエイターたちは口癖のように「自分にできるコト」と言いますが、そこから間違っている。だから「余裕がない」と言いつつ、出来る事しかやれないのです。

>考えていたとしても、それを自分の仕事に反映させる
>だけの余裕がないのが現実なのだ。

仕事に反映させるのが仕事なのに。
つまり仕事を始めてさえ居ないという事です。
作業をしているだけです。

人を感動させる本物の波動が無い。
形の良いものを取り上げて「良いデザインです」で終り。
「モノ・コト」と言うだけで終り。

LET'S COOKING!

ブログ村で「LET'S COOKING!」というトラックバック・コミュニティを見かけたので、嫌な予感がして検索して見たら・・・出て来る!出て来る!

letscooking3.jpg

まぁ、個人のブログ等での間違いならありがちですが、
中には出版社から出ているこんなシリーズ本や↓

letscooking1.jpg

大手企業のこんなサイトまで↓

letscooking2.jpg


「LET'S COOKING!」に違和感を抱かない人でも、「LET'S GOING!」になら違和感を感じるでしょう。正しくは「LET'S COOK!」「LET'S GO!」ですね。中学で習うようなこんな英語の初歩なのに、デザイナーさんたちは校正というものを行わないのでしょうか・・・というか、誰か気付けよ〜!って感じですが・・・(;´д` )「"LET'S COOKING"が一般的に広まってるので、これでも良いのですよ」なんていう開き直った言い訳が聞こえて来そうです。

関連記事:世界から笑われる

「編集手帳」

2週間前、電車の中で見かけた広告に感銘を受けました。日本の広告で感銘を受けるなんて、僕には滅多に無い衝撃でした。

henshutechou.jpg

  ひとの心を傷つけて
  喜ぶ心さびしき者に
  聞く耳はなかろうから、
  中傷された君に言う。
  蠅たちの集まりでは、
  蝶も「キモイ」と
  陰口を叩かれるだろう。
  心ない者たちのうちにも
  自分と同じ美しさを探しつつ、
  君はひとり、
  大人になればいい。

いじめ問題では「負けるな」とか「許さない」という、あり来たりな言葉で、タレントを起用した広告などありましたが、これほど説得力のある言葉はありませんでした。

人の人生をも変える広告かも知れませんね。

必要な英語力と、無駄なカタカナ英語

aboutmo425.jpg

新しいオフィシャル・サイトをネイティヴ(English Speaker)の人達に公開する前に、アメリカ人に校正してもらったところ、文法的な間違いは一切無く、唯一「余分な言い回し」の一語を削除しただけでGOとなりました。相当訂正を食らうかもと覚悟していただけに、自分でもビックリです(笑)

日本語をしゃべれる日本人だからと言って、良いコピーや文章を書けるわけでは無いように、たとえ英語を間違いなくしゃべれるとしても、良い言い回しのコピーが書けるわけじゃない。たとえ文法的には間違ってはいなくても、「そんな言い回しは普通しないよ」という場合も多い。それなのに、英語を日常的にしゃべっているわけでもないデザイナーが、日本語脳で考えたコピーを自分の英語力だけで訳したコピーを、ネイティヴの校正も無しに、平気で広告や商品に使ったりしているのを見ると、クオリティに対するいい加減さと、自己過信という問題点を感じずにはいられません。

何年も前に,某大手掲示板のクリエイター・コミュニティで数人のデザイナーたちと意気投合したのもつかの間、数ヶ月後には様々な価値観の食い違いにより空中分解しました。その中の一人に、Tシャツをデザインして販売している人が居たのですが、Tシャツに書かれている英語コピーがこれまた恥ずかしい間違いだらけのコピーだったので、それとなく指摘したところ、しばらく後「英語が得意なスタッフを獲得したのでもう大丈夫」との事でした。しかし、見たところ、それでも英語は僕から見てもとても変で、その「得意」ってどんだけなの?という感じでした。結局その後も、そういう変な英語で商品を売り続けてしまっています。まぁ、そういう物を買う人も解っていないから買えるのでしょうけれど、そもそも何のために英語なのか、全く意味を成していないと思うのです。これは、解らない英語をわざわざ使いたがる(そして結局間違った使い方のまま広まってしまう)業界人の典型のような気がします。「解らないから使いたい」「解らないから間違っていても気にならない」・・・でも、ちゃんと解っている人達も見ているのですよ?!



↑(クリックで拡大できます)こちらは「日経流通新聞」の記事ですが、修繕の事をわざわざ「リノベーション」なんてカタカナ英語にして、さらに「リノベ」なんて略して論じていますが、



なんて訳解らない説明が延々と続いています。「欧米発のリノベとは、やや趣が異なる」って・・・そもそも欧米で「リノベ」なんて言葉は有りませんし、英語のRenovation(レネヴェイション)と趣が異なるって一体誰が決めてるんでしょうか?英語のRenovation(修繕)を「修繕」と言わずわざわざ「リノベーション」とカタカナで書いて、それを「リノベ」と略して、「英語のRenovationとは趣が異なる」って、一体どういう事ですか?!異なるのは、日本語に置き換えられる言葉をわざわざカタカナ英語にしたが故に起きた「誤解」が広まったせじゃないですか!



結局「修繕」って言ってるじゃないですか(;´д` )「セルフリノベ」ってその修繕を自分で行う事でしょ?最初から「自分で行う修繕」という記事なら、何も目新しい事などありません。無理矢理新しい傾向(ブーム)に仕立て上げるために、カタカナ英語を使っている。そういうあざとさが解っているならともかく、「リノベーション」とか「リノベ」なんて言葉を使っている人達は、自身のそんなピント外れで無駄な行為にさえ気付いていない。

「日本でいう”リフォーム”は和製英語で、欧米のリノベとはやや趣が異なる」と言いながら、写真の下にはしっかり「家屋をリフォームする河田将吾さん」って書いてあるんですが・・・。「リノベ」と「リフォーム」を同義語として扱っている本人が「それらは違う意味の言葉」って一体・・・(汗)

結局、「自分で行う修繕」であり、本文では「DIY」という言葉を使っている。日本でも30年位前から「D.I.Y」という言葉は使われていて定着しているのだから、「セルフリノベ」なんて言わなくても「D.I.Yで修繕」のほうが通じるはず。さらに「ハーフDIY」なんて言葉をまるで新語のように使っているこの記事・・・次は「ハーフセルフリノベ」か!!

もう、その記事自体がスペースの無駄であり、本質を全く捉えていない言葉の堂々巡りですよ。こういう無駄な事を多くの自称クリエイターたちがプロ面して日々行っているのです。それにしても、こんなお粗末な記事を堂々と載せている「新聞」って一体・・・。

関連記事:伝わらないカタカナ語は格好良い?

土壌に合わせて棒に振る



洋書の表紙の美しさにいつも目が釘付けになります。家には何千冊という本が有り、すべての表紙にこんな美しい絵がついていると思うと、気が遠くなる想いです・・・と同時に、多くの描くプロフェッショナル達の存在を意識する。日本の本の表紙には、素直に感動できるものがほとんど無い。・・・なんて言うと、また専門家ぶった人達が商品として売る為の蘊蓄をぐたぐたと語り出しそうですね。以前こんな記事を書いた事を思い出しました。

恐らく日本では「こういう絵を描けても仕事は無いよ」と言われるのが落ちでしょう。これまでも散々伝えて来たデザインは芸術じゃないと言い切る多くのデザイナー達によって、本当に日本のデザインの現場に於ける芸術性の価値が葬り去られていると感じずには居られません。

僕は美大にも専門学校にも行かず、いきなりデザイナーとして就職しましたが、現場では絵などほとんど描く機会はありませんでした。当時の僕に描けたのは大学時代にノートの端に描いたような、「筆記用具」(シャープペン、鉛筆、ボールペン、マーカー)による落書きのようなもの。しかし当時、その絵に目を止め、育ててくれたのがマイケル・センベロ氏だったのです。

会社を1年足らずで辞め、路頭に迷いかけていた僕を拾ってくれたのが、会社時代に写植・版下の外注さんだった人で、その人が周りに「こんな凄い絵を描く子が居る」と噂を広めてくれて、初めてフリーランスとして受けた本格的な絵の仕事はHONDAのポスター広告のための鳥の絵でした↓



相変わらず鉛筆画しか描けない自分でしたが、これは色鉛筆を使って初めて挑戦した仕事です。当時、鉛筆では不可能な濃度とシャープさを出す為にボールペンを多く用いていましたが、この絵にも10色ボールペンなど使っていたような気がします。この後、水彩色鉛筆やパステルなども併用するようになりました。絵の教育を受けていなかったが故に編み出した、独特の画材&技法だったとも言えるかも知れません。色鉛筆&パステル画に、エアブラシの時に使うマスキング・シートなども駆使していましたから(笑)インターネットなど当時は無く、自分で考えて編み出すしか無かったのです。

本題からちょっと逸れてしまいました。僕がやりたかった仕事は、最初に載せたアメリカの本の表紙のような、感動できるような凝った絵を描く事であったわけですが、日本の(ましてローカルの)仕事では、そんな仕事など皆無で、生き残るために誰にも描けそうな線画のカットや流行系のほのぼのイラストばかり。自分の個性を殺さずには生き残れない業界です。しかしですよ、こんな小さな国の、こんな偏った業界という「土壌」に自分を合わせて生きていたら、たった一度の人生を棒に振ってしまいます。「本当に自分のやりたいものはニーズがない。だから収入のために需要のあるものを作る。本当は世界に出て行きたい。でも普段やっていないのでその才能も磨けていない。」・・・そんな葛藤を抱えている人って多くないですか?

日本人は一番上に載せたアメリカの表紙に感動しないのですか?そんな事は無いですよね?「こういうのはウケないから/売れないから」なんて勝手に決めつけているのは業界の人間達なのだと思います。そんな無知さや愚かさが、本当に才能のある人達を育つ土壌を破壊しています。UNIQLOCKじゃないですけど、あのクオリティで良しとしてしまうのでは、誰も苦労して本物を追究する努力などしません(しても食って行けない土壌を自ら作っているのが、いわゆる「クリエイター」たちです)。

さて、この記事を書きたいと思ったのは、クリエイター友達が「偉い先生方は作品の評価を、新しい、古いでジャッジしてしまう。その下で、どれだけ多くの才能が切り捨てられるのか・・・」と言って、ある美大生の方のブログを教えてくれた事がきっかけです(すでに何度か拝見したことがあるブログでした)。友達が言う記事を見てみると、公開審査で並べられた色鉛筆画による広報紙の表紙3作品があり、本文を読む前に僕が一番素晴らしいと感じた作品(そのブログのゲストさん達もそれが一番気に入っている様子でした)に対して「作風が古い」云々と"先生"が切り捨てている。もうひとつ、絶滅危惧種の動物をテーマにしたポスター(美しいチーターが描かれていました)に、生徒が「どのようなコピーでしたら"これ!"って感じしますかね?」と先生に尋ねたところ、「そうだね、"なんじゃい。"がいいな」との返事・・・さらに「どの辺が"なんじゃい"なんですか?」と疑問を投げかけると、「だって(チーターが)なんじゃいって顔してるじゃん」と先生。僕はこれを読んで心底腹が立ちました。笑い話などでは済みません!!!一人の才能ある人間の未来が「だってなんじゃいって顔してるじゃん」なんて言葉を平気で言える人に大きく左右されているという、この状況とは!?この凄く伸びる可能性を秘めた生徒にこの教師ですか!(「教師」なんて呼びたくもありません。本来なら、何歳になっても生命&全エネルギーを傾けて、現場で良い作品&文化づくりのために制作に取り組み、それを世界でやり遂げてから、次の世代に教えて行くものじゃないんですかね?)・・・終わってる・・・教育の現場が終わってる。つまり日本の未来も危うい。

「トマーテ」をこき下ろしたデザイン講師と、「先生のおっしゃる通り」と不自然に賛同する生徒達の事を思い出しました。それと、学校での先生の教えに従わないと単位の取れないこんなケースも。

なんだか世界に通用しない日本の業界に適合するための養成所に見えて来る。純粋な感覚や情熱や才能を、活かす為に日本の土壌に合わせたら、駄目になる。「マジで言ってるんですか?」と思えるような事を平気で言えるようになったら、日本の土壌に最も馴染んでいるという事なのかも知れない。

「デザイン」の押し売り

「mottainai」、その単語が外国に無ければ気持が無いわけじゃない。「無駄にしたくない」という英語でも同じじゃないか。



↑デザイナーって何様なのか?「キモチ」っていうカタカナやめて「気持ち」って書いてくれないかなぁ・・・。→デザインにできるコト

上の文章がすでに支離滅裂で何を言いたいのか解りません。「勿体ない」は昔からある概念。「モッタイナイ」はこれからもっと大切になる言葉?強く主張せず奇を衒わないのにカタカナ?芸能人を起用?!「環境と聞いてもあまりトキメキが無い」「環境うんぬんは取りあえず脇に置いておいて」って、このデザイナーの個人的な主観じゃないのか?

eneloopのCMで「mottainai」という言葉をわざわざ外国人に言わせているものがありますが、「日本には"勿体ない"という言葉があるので、世界のどの国よりも物を大切にする人種」というような、あまりにも短絡的な理論をいろんなデザイナーのブログなどで見かけます。「mottainai」という言葉が無い国の人々は、何も思わずにどんどん無駄に捨てているとでも言うのか?日本に無い言葉や言い回しは気にならないんですね(笑)もちろん無いものは無いという事に気付くのは難しいですが、言葉による言い回しが無いからと言って、感情や概念が無いと(一方的に)してしまうのは、あまりにも感性的・調和的な何かが欠けていないだろうか?

MOTTAINAI SHOP

↑買う方が勿体ないと思うのだけど・・・。
どうして「勿体ない」がクリエイターとかデザインでなくちゃいけないのか。単に彼らの「デザイナーに出来るコト」なんていう押し売りに過ぎない。「MOTTAINAI傘=12,600円」・・・ふざけるな。一体何考えているんだ?勿体無い!!

関連記事:デザイナーたちの自己満足2

ものまね大賞


レオナ・ルイスの大ヒット・アルバム。

bestai.jpg
あるJ−ポップな方のアルバム。
並べると、何だか後者は「パロディ」(わざと笑わせるためにやっている事)に見えて来る・・・。

遠回りをして難しい事をやっているふりをする人々

何故か今日は「プロッシャー 意味」という検索でこのブログに辿り着く人達が多いです(笑)



デザイン・ブログ村で学生さんによるこんな記事を拝見して、「いいぞ!若者!その調子で突き進め!」と思ってしまいました(笑)

それにしてもです、同じデザイン・ブログ村でちょっと前に発見した、デザイン講師をしている中年男性(恐らく40代後半〜50代前半ぐらい?)のブログを見て愕然としました。生徒に教え、試験問題も作っているその人自身、カタカナ英語のオンパレード!単位を取るにはそのカタカナ言葉を覚えなければならないのか!と、その無意味さにショックを受けました。若者が使いたくて使っているのでは無いのかと・・・。単に教える側が「そう言ったほうが格好いいから」とか「難しそうに聞こえるから」「外国から入って来た新しい概念のように聞こえるから」なんていう馬鹿な脳味噌で授業してるだけなのではないか?さらにカタカナ用語を使いたがるプロたちも同じように「難しく聞こえそうな理論」を展開したがります。伝える為に語るのでは無いのか?相手にわざと解らないような言葉を選んで使っているとしか思えない。

「修繕」をわざわざ「リノベーション」というカタカナ言葉にして、「リノベーションとは既存の建物に大規模な改修工事を行い、用途や機能を変更して性能を向上させたり価値を高めたりすること。」なんて説明しているのを見ると、一体どれだけ無駄な時間を使っているのか(本気でやる気はあるのか)とあきれます。「修繕」に大規模か小規模かなどという定義は含まれませんし、「用途や機能を変更」も場合によるし、「価値を高める」に関しても、前より悪くするための「修繕」なんて有り得ないのだから、「リノベーションとは修繕です」で良いのです。去年の記事で「ざわざ"修繕"を"リノベーション"なんて伝わらない長い文字にしてますが、そのうち"リノベ"なんて略しそうで怖いです」と書きましたが、案の定「リノベ」と略した言葉も見かけるようになりました。「修繕」のほうが2文字で伝わりますけど?

カタカナ言葉を使いたがる人は、最も適切な日本語に置き換える事は出来るのか?一語の英語を、日本語に置き換えると「文章」になるってのが、そもそもおかしいと思わないのか?一語の英語は一語の日本語に置き換えれば済む事です。→「ユーザビリティ、トレーサビリティ、ホスピタリティというカタカナ」  最も適当な一語(しかも母国語ですよ!)に置き換えられなくて、どうしてその本質を解っていると言えるでしょうか?

英語で覚えれば、国際舞台でも通用するとでも言いたいのかも知れませんが、「リノベーション」にしても、すでに発音も間違ってますし、そこから通じません。それに単語以外にすべて英語で説明できなければ何の意味も無いでしょう?一体何をしてるんだか、お笑いとしか思えません。そのヘンテコな行為自体が、日本の外では通用しない。

先輩の(ましてや先生の)言う事には逆らう訳にはいかないのかもしれませんが、本質とは掛け離れた無駄な事を指摘できる若者が出て来た事に、ちょっぴり日本の将来に光が差した気がした・・・。

世の中の為にものを作ることを教える現場で、こういう現状を問題として真っ先に取り上げない(教えない)こと自体がおかしいと思うのだけれど・・・。

関連記事:
●裸の王様の見えない洋服
●HUMAN CENTERED DESIGN FOR ACCESSIBILITY AND USABILITY? WHAT THE HELL IS THAT?!
●IT'S NOT CREATIVE AT ALL
●"SUBSCRIBE"
●ホスピタリティその他
●解り難くて伝わらないのはユーザビリティにもホスピタビリティにも反します
●ライフハック(笑)
●「なるべく伝わらない言葉で伝えましょう」と教わりましたか?
●世界から笑われる
●「馬鹿が治る薬」
●「テンション低いです」とか
●愚か者のダンス

わざわざカタカナ英語にして、それをさらに略す例として「セレブリティ→セレブ」「ヘヴィー・ローテーション→ヘビロ」なんてのがありますが、大のおとながそんな言葉を使いたがるのって、やっぱり見苦しい。
Next Page »

PROFILE

Morito Suzuki

RECENT COMMENTS

ALL TITLES

全タイトルを表示

ブログ内検索

+





ブログランキング・にほんブログ村へ