This Category : ニッポンのデザイン
DROWSY CHAPERONE
2009.06.16 *Tue
(3年前の10月に書いたエントリーです。大切な事だと思うので再アップです。少しでも多くのクリエイターさんたちに共感してもらえたら、日本の業界はもっとマシになるはず。)

トニー賞受賞のブロードウェイ・ミュージカル「Drowsy Chaperone」のCDです。CDがレコードになっているのは、舞台好きな主人公の"Man In Chair"のお気に入りがレコードで1920年代のミュージカル「Drowsy Chaperone」を聴くことだからです。彼が椅子に座ってレコードをかけながら、ミュージカルへの想いをギャグ連発で語り、舞台はそれにシンクロします。レコードの針が飛べばシーンも針飛び、ポーズをかければシーンもポーズする。とにかく一人の語り手のイマジネーションの世界なので何でもありなのです(笑)突然違うミュージカルになったり、東洋的な(中国と日本のミックス?な)派手なシーンもあって、楽しい。
このミュージカルはカナダ発でブロードウェイに辿り着いたそうですが,日本からブロードウェイに辿り着く作品って無いものでしょうか・・・(ため息)
<関連記事:BROADWAY MUSICAL IN JAPAN>(←click!)
僕はこのショーをまだ舞台で観てはいませんが(上演中だった時期にブロードウェイで別の2本を鑑賞したので)、CDで聴くだけでも楽しく、ブックレットにも楽しい写真や美しいデザイン(1920年代風のポスターなど)満載。そしてCDがレコード盤ですもん。素晴らしい演出です。次回ブロードウェイを観に行くときは絶対に観たい作品です!僕は決してミュージカル・マニアではありませんが、良質のエンターテインメント全般が好きなハウスホストさんのお陰でこういうものを沢山浴びる事が出来ています。彼もまたマニアというわけではなく、純粋に良いものが好きなんですよね。そしてこういう話題はパーティに行って誰と話しても通じるし、みんな興味を持ってる。そんな健全な環境が僕にとってとてもプラスになっています。クリエイティヴの世界に居て、そういう存在を知らないのは、素人さんにも劣る恥ずかしい事だし。
先日書いた、杉山登志・杉山伝命のドラマ「メッセージ」のエントリー(こちら)の登志氏の言葉:
リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは・・・とても
嘘をついてもばれるものです
この文章について、ある脚本塾の講師が次のように断じていたという話が、あるライターさんのコラムにあった:
「そんなのはクリエイターとして、言ってはならない禁句です。年収が1千万ないと、超高級マンションのコピーライティングは書けませんか? 家庭円満でなければ、毎日定時に帰って一家団欒を味あわなければ、幸福な家族像は描けませんか? そんなはずはありません。どんなに厳しい状況におかれても、どんなに不幸な境遇にいても、いやだからこそ、夢を描き夢を売らなければ、クリエイターとは言えないのです。甘えるな!とあえて申し上げたい」
クリエイターには「年収が1千万ないと、超高級マンションの宣伝コピーは書けませんか?」みたいな極論にすぐに持って行きたがる人が多い。書けるか書けないかといえば「書ける」。だから嘘っぽいコピーやデザインが巷に溢れているわけで、パワーが無くてお粗末でも仕事としては回って行くしコピーはコピー、デザインはデザイン。でもコピーライター側の「書けるか書けないか」の問題じゃなく、その質の問題だと思う。登志氏の最後の一行「嘘をついてもばれるものです」・・・これに対して「バレない」と言うのが、この脚本塾講師の主張なのだろうけれど、最悪なのは「バレてることにさえ気付いてない」ということだ。または嘘だと気付かないか、どっちでも良いと思っているクライアントに支持されているか。
この塾講師の言葉に対してライターの彼女は次のように語っていた:
「残業・早出が続き、言いたい放題の困ったクライアントにも笑顔で接し、クライアント至上主義の営業の要求を呑んで黙って表現を大げさに書き換え、コンビニのカップ麺をすすりながらフレンチの達人が華麗に仕上げたコースの見事さを書き、ホスピスに入った母が日々衰弱していく姿を見ながら"双子のようにセンスが同じの、リッチな母娘"に来店を呼びかける百貨店についての文章を書いているときに、繰り返し杉山登志の文章を、そして彼の文章を批判する言葉を思い起こさずにはいられなかった。嘘をつくのは、本当に、ほんとうにやりきれないことだ。自分は自分自身や誰かを傷つけないためのささいな嘘は吐けても、壮大な嘘をつくには、つくづく向いていないのだと思う。」
なんと謙虚なのでしょう。本当に心のある創造が出来るのは、このような謙虚さが土台にある人だと思った。自分の置かれている現状を認めなければ、そこからどう努力をして行くべきかという事は解らない。彼女は文章の最後に、杉山兄弟の偉業に対して「自分自身がハッピーなときもハッピーでないときも、苦しみ悩み、時には周囲とぶつかり満身創痍になりながらも、尽きせぬ夢を大衆に与えてくれて、本当にありがとう。彼らに向けて、もはや独自の表現を断念したへたれな凡人はそう感謝するしか、ない。」と綴っていた。その純粋さに胸を打たれた。
それとは対照的に、「書けるか書けないか」なんて極論ばかりで、作業してるだけの自称クリエイターたち。恥ずかしい。ドラマの中で藤竜也扮する杉山伝命は、「本物を伝える努力を本当にしているか」という部分に力を込めて言っていた。それに対する応えが「書けるか書けないか」では、全く意味が解ってないってことだ。
ブロードウェイを観に行かなくても、音楽を聴かなくても、観に行ってる人達の気持ちをを知らなくても、かっこいいデザインは・・・できる。「できるかできないか」と言えば「できる」。しかし、そのデザインが、本当にブロードウェイ作品を観に行っている人達の知識を超えているものか、感動を超えているものかといえば、魂が全く無い表面的なものでしかない。そんな人を小馬鹿にしたような仕事をするわけにはいかない。
書店や図書館に調べに行っただけで「調べました」なんていう即席では本物では無いのだ。まして、苦し紛れにコンビニの雑誌コーナーにアイデアを探しに行くなんて、創造のパッションの土台自体が無いようなものだ。人が本当に心から感動している現場に行って、その人達の感情を自分のものにしなければ、彼らの感動にシンクロするものなど作れるわけがない。
こちらのエントリー(click!)で「アメリカ人と接する機会が多いだけではここに説明した意識を知ることができない。ある程度の部分まで生活や行動をともにしないと知りえることはできない」という言葉を引用しましたが、ほんとに自分の生活に取り入れるぐらいでないと、解らない。「年収が1千万ないと、超高級マンションのコピーは書けませんか?」・・・「書けないかもしれませんね」と僕なら言います。少なくとも、超高級マンションを購入した本人に勝るものを、単なる想像だけで書こうとしてもパワーは充分ではないはず。購入者を知っているというだけでもまだ足りない。一緒に生活してみるぐらいじゃないと・・・(←可能かどうか解らないけど、本物を書く為の努力というのはそれぐらいのものだって事です。)または何も経験しなくても、すべての人を騙す事が出来るぐらいの完璧な嘘で人々を大感動させる事が出来るのなら、それは凄い事なのかも知れませんが・・・でも結局「バレてることにさえ気付いてない」という人達が、そう勘違いするだけなんだろうけど。
自身の経験の足りなさや無知さに対して、もっと謙虚になって取り組まないといけないってことです。本当に考えているなら、こんなに酷いものが溢れていて何も残って行かない日本をまず最初に考えるはず。デザイン、デザインと言ってばかりいて、結局自分の作業や手柄のことしか考えてない。即席デザイン屋はこの世に要らない。
腐っててもデザイン。嘘まみれでもコピー。
関連記事:ブロードウェイ・ミュージカル?

トニー賞受賞のブロードウェイ・ミュージカル「Drowsy Chaperone」のCDです。CDがレコードになっているのは、舞台好きな主人公の"Man In Chair"のお気に入りがレコードで1920年代のミュージカル「Drowsy Chaperone」を聴くことだからです。彼が椅子に座ってレコードをかけながら、ミュージカルへの想いをギャグ連発で語り、舞台はそれにシンクロします。レコードの針が飛べばシーンも針飛び、ポーズをかければシーンもポーズする。とにかく一人の語り手のイマジネーションの世界なので何でもありなのです(笑)突然違うミュージカルになったり、東洋的な(中国と日本のミックス?な)派手なシーンもあって、楽しい。
このミュージカルはカナダ発でブロードウェイに辿り着いたそうですが,日本からブロードウェイに辿り着く作品って無いものでしょうか・・・(ため息)
<関連記事:BROADWAY MUSICAL IN JAPAN>(←click!)
僕はこのショーをまだ舞台で観てはいませんが(上演中だった時期にブロードウェイで別の2本を鑑賞したので)、CDで聴くだけでも楽しく、ブックレットにも楽しい写真や美しいデザイン(1920年代風のポスターなど)満載。そしてCDがレコード盤ですもん。素晴らしい演出です。次回ブロードウェイを観に行くときは絶対に観たい作品です!僕は決してミュージカル・マニアではありませんが、良質のエンターテインメント全般が好きなハウスホストさんのお陰でこういうものを沢山浴びる事が出来ています。彼もまたマニアというわけではなく、純粋に良いものが好きなんですよね。そしてこういう話題はパーティに行って誰と話しても通じるし、みんな興味を持ってる。そんな健全な環境が僕にとってとてもプラスになっています。クリエイティヴの世界に居て、そういう存在を知らないのは、素人さんにも劣る恥ずかしい事だし。
先日書いた、杉山登志・杉山伝命のドラマ「メッセージ」のエントリー(こちら)の登志氏の言葉:
リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは・・・とても
嘘をついてもばれるものです
この文章について、ある脚本塾の講師が次のように断じていたという話が、あるライターさんのコラムにあった:
「そんなのはクリエイターとして、言ってはならない禁句です。年収が1千万ないと、超高級マンションのコピーライティングは書けませんか? 家庭円満でなければ、毎日定時に帰って一家団欒を味あわなければ、幸福な家族像は描けませんか? そんなはずはありません。どんなに厳しい状況におかれても、どんなに不幸な境遇にいても、いやだからこそ、夢を描き夢を売らなければ、クリエイターとは言えないのです。甘えるな!とあえて申し上げたい」
クリエイターには「年収が1千万ないと、超高級マンションの宣伝コピーは書けませんか?」みたいな極論にすぐに持って行きたがる人が多い。書けるか書けないかといえば「書ける」。だから嘘っぽいコピーやデザインが巷に溢れているわけで、パワーが無くてお粗末でも仕事としては回って行くしコピーはコピー、デザインはデザイン。でもコピーライター側の「書けるか書けないか」の問題じゃなく、その質の問題だと思う。登志氏の最後の一行「嘘をついてもばれるものです」・・・これに対して「バレない」と言うのが、この脚本塾講師の主張なのだろうけれど、最悪なのは「バレてることにさえ気付いてない」ということだ。または嘘だと気付かないか、どっちでも良いと思っているクライアントに支持されているか。
この塾講師の言葉に対してライターの彼女は次のように語っていた:
「残業・早出が続き、言いたい放題の困ったクライアントにも笑顔で接し、クライアント至上主義の営業の要求を呑んで黙って表現を大げさに書き換え、コンビニのカップ麺をすすりながらフレンチの達人が華麗に仕上げたコースの見事さを書き、ホスピスに入った母が日々衰弱していく姿を見ながら"双子のようにセンスが同じの、リッチな母娘"に来店を呼びかける百貨店についての文章を書いているときに、繰り返し杉山登志の文章を、そして彼の文章を批判する言葉を思い起こさずにはいられなかった。嘘をつくのは、本当に、ほんとうにやりきれないことだ。自分は自分自身や誰かを傷つけないためのささいな嘘は吐けても、壮大な嘘をつくには、つくづく向いていないのだと思う。」
なんと謙虚なのでしょう。本当に心のある創造が出来るのは、このような謙虚さが土台にある人だと思った。自分の置かれている現状を認めなければ、そこからどう努力をして行くべきかという事は解らない。彼女は文章の最後に、杉山兄弟の偉業に対して「自分自身がハッピーなときもハッピーでないときも、苦しみ悩み、時には周囲とぶつかり満身創痍になりながらも、尽きせぬ夢を大衆に与えてくれて、本当にありがとう。彼らに向けて、もはや独自の表現を断念したへたれな凡人はそう感謝するしか、ない。」と綴っていた。その純粋さに胸を打たれた。
それとは対照的に、「書けるか書けないか」なんて極論ばかりで、作業してるだけの自称クリエイターたち。恥ずかしい。ドラマの中で藤竜也扮する杉山伝命は、「本物を伝える努力を本当にしているか」という部分に力を込めて言っていた。それに対する応えが「書けるか書けないか」では、全く意味が解ってないってことだ。
ブロードウェイを観に行かなくても、音楽を聴かなくても、観に行ってる人達の気持ちをを知らなくても、かっこいいデザインは・・・できる。「できるかできないか」と言えば「できる」。しかし、そのデザインが、本当にブロードウェイ作品を観に行っている人達の知識を超えているものか、感動を超えているものかといえば、魂が全く無い表面的なものでしかない。そんな人を小馬鹿にしたような仕事をするわけにはいかない。
書店や図書館に調べに行っただけで「調べました」なんていう即席では本物では無いのだ。まして、苦し紛れにコンビニの雑誌コーナーにアイデアを探しに行くなんて、創造のパッションの土台自体が無いようなものだ。人が本当に心から感動している現場に行って、その人達の感情を自分のものにしなければ、彼らの感動にシンクロするものなど作れるわけがない。
こちらのエントリー(click!)で「アメリカ人と接する機会が多いだけではここに説明した意識を知ることができない。ある程度の部分まで生活や行動をともにしないと知りえることはできない」という言葉を引用しましたが、ほんとに自分の生活に取り入れるぐらいでないと、解らない。「年収が1千万ないと、超高級マンションのコピーは書けませんか?」・・・「書けないかもしれませんね」と僕なら言います。少なくとも、超高級マンションを購入した本人に勝るものを、単なる想像だけで書こうとしてもパワーは充分ではないはず。購入者を知っているというだけでもまだ足りない。一緒に生活してみるぐらいじゃないと・・・(←可能かどうか解らないけど、本物を書く為の努力というのはそれぐらいのものだって事です。)または何も経験しなくても、すべての人を騙す事が出来るぐらいの完璧な嘘で人々を大感動させる事が出来るのなら、それは凄い事なのかも知れませんが・・・でも結局「バレてることにさえ気付いてない」という人達が、そう勘違いするだけなんだろうけど。
自身の経験の足りなさや無知さに対して、もっと謙虚になって取り組まないといけないってことです。本当に考えているなら、こんなに酷いものが溢れていて何も残って行かない日本をまず最初に考えるはず。デザイン、デザインと言ってばかりいて、結局自分の作業や手柄のことしか考えてない。即席デザイン屋はこの世に要らない。
腐っててもデザイン。嘘まみれでもコピー。
関連記事:ブロードウェイ・ミュージカル?
時間を大事にしていると思えるデザイナーを見かけない
2009.06.15 *Mon
毎週紹介している食事のビデオですが、こういった時間を大切にしながら、良いものを極める人達(作り手側だけに限らず、堪能する側が求めるからこそ、作る側はその機会が与えられるという事も!)との調和の存在を感じます・・・感じますというより、雷に打たれるというか、大波に呑まれるというか、それぐらいの力強さで、無言で自分の中に入って来ます(この「無言」で解るという事こそが「感覚的に解る」という事であるとこちらで説明しました)。
たとえば、価値が評価され博物館で展示されているような腕時計があるとします。しかし、それは決してガラス越しで見たり、美術本に載った写真として見るために作られたわけでは無い。実際に人に使われて初めて価値が生まれ、物の価値として評価されます。美術館で有名な絵を実際に見るのは良いけれど、それだけで良いとは思わない・・・空間との調和を考えるならば。大勢の観覧者の頭越しに背伸びして観るために描かれた絵などでは無い。座り心地の良い椅子に深く身を埋めて、時間を楽しみながら眺める絵ではないか。奇麗な花も、その存在自体が作り出す空気に価値があり、奇麗な花の写真を一枚置いておけば済むなら、時間が経てば枯れてしまう花に高い金など誰も払わない。物を色・形・数値などでしかジャッジできない(それ以上のもっと大事な価値を大切にしない)デザイナーたちに、時間や空間的価値なんて概念は無い・・・それはその人の日々の過ごし方で解り、ブログのように毎日更新されるものだからこそハッキリ表れる。
いつも見に行っているデザイナーのブログが集まる某サイトでは、ほとんどの人達が「検索」で得た情報でデザインを語っている。現物を見ていなかったり、使っていない物を色や形やスペックだけでジャッジしたり、デザイン以外の物事もネット上に有ったものを取り上げているだけ。むしろ当たり前になっているというか、取り上げたほうがアンテナが敏感だと思ってやしないか。本当に悲しくなる。
これまで取り上げた一例:
●「自分は普通の人よりデザイン的感覚が鋭い」という驕り
●「デザインにできるコト」なんていう勘違いの押し売り
●ユーザーでもないのにユーザーの「つもり」(想像)でジャッジする愚者
●「スプーンレスなコップ」でスタイリッシュをご提案(お馬鹿の二乗)
●おなじみ「缶のデザインが悪いので飲みたい気になりません」
●自分は大切にしないものを、人に「大切にしてみてはいかがでしょうか」と提案?
●「良いものを味わう金も時間も無論ありません(でも自分の作るものは買ってください)」
●日本のデザイナーたちの奉る「最高傑作」は使う人不在の単なる「カタチ」
みんなでこういう体質なのですから、そこでは矛盾なんて感じている人は居ないのかもしれませんが、上の映像のような場所で時間を過ごしながら、いつも僕はそういう馬鹿発言を平気でしている自称「プロ」たちの事を思い出してしまうのです。上の映像の中の自分が「このプレートのデザインが良い!」なんてピンポイントな目線でしか物事を判断できない人間だったら、どれだけ馬鹿なことか、その場所に行けば解るものです。調和して全体的な価値になる。そして最終的には時間的価値になるということを、語るデザイナーたちをほとんど見かけない。そもそも、時間を大事にしていると思えるデザイナーを見かけない。
むしろ「この○○(新製品)の色と形が良いです。デザイン・ブログ・ランキングに参加しています。あなたのクリックが励みになります。」(←これが全文)みたいな記事だけで「デザイン考察」なんて謳ってる、まるで「プロの目で良いって言ってるんだから良いんですよ(参考になりましたか?)」みたいな、びっくりするほど傲慢なベテラン・デザイナーのブログもあり、完全に使う人達(そっちが主役でしょう?)を無視しています。
「デザインという仕事では、コミュニケーションがとても大事です」なんて馬鹿の一つ覚えみたいに言ってる人を多く見かけますが、コミュニケーションが大事じゃない仕事なんてあるんですか?と、逆に訊いてみたい。大事というより、当たり前じゃないんですか?仕事(作業)する上でのコミュニケーションなんかじゃなく、もっと世の中のあらゆるものと調和するためのコミュニケーションをすべきです。特に、文化を高めてくれる、良いものを求める人達の過ごし方など、自らも大切にして調和する必要があります。「提案」なんて、どの面下げて言ってるのかと思いますね。
ネット上で拾った情報(または読んだ参考書の受け売り)がブログの中心になってる、自分発信ではないデザイナーなんて、僕は信用しません。
関連記事:「これ以上日本を駄目にしないでください」
(追記)

アクセス解析からこんなリンクからここに辿り着いている人達の存在を知りました。その言葉を取り上げていただいて嬉しいです。ありがとうございます。
理想を現実に
2009.06.11 *Thu
懐かしいパーラメントのCF。ボビー・コールドウェルの歌う「Stay With Me」。レコーディングは何とマイケル・センベロのスタジオ「BOSSA NOVA HOTEL」です(そう、我々のプロジェクト「BOSSA NOVA HOTEL」の名前はそこから来ているのです!)。このCMの美しい映像と世界観が大好きでした。言葉で埋め尽くさなくても、見る人はその感性で、言葉には置き換えられない多くを受け取ってくれるという、理想的な広告だと思います。そういう大事なこと以前に「戦略」とか「効果」を"語り"たがり、方法論ばかり唱えてプロぶってる人達って一体何なんでしょうね(汗)もっと純粋に美しいものや、自分(自分達)の生活の中での豊かなものを追求したらどうなんでしょう?このブログを訪れてくれている方々はもう感じておられるかも知れませんが、僕はこの映像の中のような、粋で大人らしい時間の過ごし方に憧れます。多くのクリエイターたちが押し付けたがる「親しみ易さ」なんて、わざわざ求めなくてもそこら中にあるものです。その美しい時間は単なる空想の風景なんかじゃなく、我々が閉じこもって仕事をしている間にも、どこかで繰り広げられている実在の時間や美しさです。クリエイターとしてそういうクオリティを提案したい・・・しかし、それ以前にそういう体験をし、感動を人々と分け合える感覚を持ちたい。絵に描いたような格好良い理想を現実に・・・まずは自分で実行しなければ。昨日のエントリーも、アメリカンコミックに出て来るような肉体の持ち主は架空ではないという話であるし、日々伝えているグルメとクオリティな時間も、結局は上の映像のように美しい生き方のひとつの提案。そういう事を大事にしてない人に伝える権利なんか無いと思っています。勿論、何のための広告かと言えば、効果をもたらす事が目的なのですが、その中身が「本物」かどうかという事です。偽物であることを素人にも見透かされている事にさえ気付かず、姑息な手段ばかりに執着し、筈かしげも無くプロづらで偉そうに上から目線で語っている人達があまりにも多いのです。今日はどんな攻略本を読みました的な、そんな風に日々を過ごして、一体どんな生活を提案しようとしているのか。馬鹿にするにも程が有ります。参考書を買う金と読む時間があるなら、それをもっと何か「本物」に充てるべきです。自分が「勉強しました」という自己満足を得るために、時間や金を費やすべきじゃない。ブログは「本読んで一生懸命に勉強してます」っていう言い訳の場ですか?!結果に表せない理論なんて何の意味もない。結果で表してくれれば良いんですよ?

話は変わりますが、フランスのミュージシャンからジャケットの依頼をいただきました。全く知らなかったアーティストで、世間的にはまだ無名(しかしヨーロッパの数々の音楽コンテストで受賞している)のですが、デモを視聴したところ、かなりの才能の持ち主で、デモ段階のクオリティが半端じゃなく高いです。アルバム制作の為に優秀なブレイン(スティーヴィー・ワンダー関連のミュージシャン等)を集めているところのようです。そのクオリティなら喜んで参加!ということで、この度、初のフランスのお仕事をする事になりました。歴史ある芸術の都であるフランスからの絵の依頼という事で、自分の気持も引き締まります。
作らないというデザイン
2009.06.04 *Thu
マンハッタンのペン・ステーションからアムトラックでラインクリフまで、ハドソン川沿いを北上します。ニューヨークなのにこんなに自然がいっぱいと驚かれる方も少なくないかもしれません。日本と最も違うところは、駅と車内の広告の少なさ。ほとんどありません。日本では「広告を見ないという自由さえ無い」と感じます。
僕は広告の仕事から離れて10年以上経ちます。広告を主にやっていた頃は、広告の手段や効果に真っ先に注目して、自分の仕事に活かそうとしていたと記憶しています。「お客様のために」・・・それがキーワードだったように思いますが、今でもよく「お客様に求められるものとは?」なんて模索している記事を見かけると「う〜む」と思ってしまいます。作る側として「お客様」と言ってる段階ですでに物に対する視点がニュートラルじゃないんですよね・・・自分は「お客様」じゃないのか?!広告でいっぱいの駅で「この見せ方がいい!」とか「この見せ方はイマイチ」なんて思うデザイナーは多いと思いますが、「広告なんか無ければいい」というのは選択肢にありません。もちろん、広告が無くなれば生活して行けない身としては、そういう自己否定的な概念は禁句というか、怖くて選択肢にさえ置かないのかも知れませんが、それが「身勝手で傲慢な作り手」の始まりだと思うのです。
ユーザーとしては、広告は有るべきところに有ってくれたら良いと思う。情報を求めた時と場所に上質な情報がある、というのが理想です。広告にもTPO(時・場所・状況)というものは必要不可欠です。作る側(自ら「与える側」などと言ってる人達)がそういう事を論じているのを見かけたことがありません。どれだけ多くの場所に置いてもらうとか、そういう話は嫌というほど見かけます。暴力的に空間を支配するジャック広告など、むしろ「自分のデザインでやれたら」なんて思っているデザイナーは多いのではないでしょうか。しかしユーザー視点で「こういう場所では要らない」「こんなものは要らない」という話などしません。それは「エコバッグなんて有り余ってて、もう要らない」という一般ユーザーの声を無視して勝手に作って盛り上がるデザイナーたちの姿勢と同じです。
過去の記事をもう一度載せてみますね:
『調和こそがデザインの意味』

アメリカの典型的な駅の風景(クリックすると大きくなります)。
「TO TRAINS」「TICKETS」などの文字もバックの木目やブロックと調和して格調高い雰囲気です。余分な広告が無く、必要最小限の情報しか無いので、とても解り易いです。自動販売機もギンギンに光を発して何台も並ぶ日本の悪趣味なマシンとは全然違います。デザイナーの手柄というよりも、国民の根底に有る美意識の表れだと思います。
アメリカの駅の中のゴミ箱(写真)とホームのゴミ箱(映像)は同じ。ゴミを捨てたかったら青い箱を探せば良いわけです。解り易い。駅に近づいても線路沿いに広告看板なんか現われません。必要最小限な情報だけで整理されているです。こういうのが本当の「デザインするということ」なんじゃないでしょうか?(大きな意味で、余分なものを増やさないというのもトータルなデザインです。)

日本の典型的な駅の風景(クリックすると大きくなります)。
広告だらけです。必要な情報と不必要な情報が入り乱れています。色の調和など最初から存在しません。天井の広告から目を反らしても、同じ広告が床にまであります・・・これって暴力的じゃないですか?広告を見ない自由が存在しません。まるでスパム広告のような品の無さです。この醜さに息が詰まるとクレームをつける人は居ないのでしょうか?
電車の中刷り広告の多さやセンスの悪さにもうんざりですが、新幹線にはどうして広告が少ないのだろう?とちょっと気になって調べてみました:
教えて!goo/新幹線に広告が少ないのはなぜですか?
どれも答えは曖昧なのですが、品位とか品格というキーワードが絡んでいるように思えます。広告をうるさいと思っている一般の人達は少なくないと思います。でもどこへ行っても広告だらけの駅や電車が当たり前になっているので、そのうるささに慣れてしまっている部分もあるでしょうね。いわゆる感覚の「麻痺」です。
以前日本人の明かりに関するエントリーと日本の街並に関するエントリーでも触れたような、「日本人は醜いものに対して鈍感」というのは否定できない気がします。そこに疑問さえ感じない神経では、本当の美しいデザインなんて作れないと思います。これだけゴチャゴチャな風景が気にならずに「シンプル・イズ・ベスト」なんて言ってられるデザイナーがどれほど多いことか。
ゴミ袋のエントリーじゃないですが、デザインして物を作って終りという単なる作業ではなく、最終的な目的がちゃんと結果に出て、調和が取れてこそのデザインだと思うのですが・・・。日本の多くのデザイナーたちがやっている事は、上の2枚目の写真の中にある広告のデザインをどう処理するかという部分でしか無いと思います。そんな表面的&部分的な善し悪しでしかデザインを語れないプロが万延しているのですから、この国の醜い景観がいつまで経っても改善されないのもうなづけます。
IDIOT DANCE
2009.05.30 *Sat

こういう本自体、読みませんが、下の方に書かれている2行だけで十分な気がします(笑)
このブログでは「感覚的に解る」というキーワードがよく登場しているように思いますが、例えば感覚的に「解る」(察知する)のに0.01秒もかからないような事でも、それを言葉で説明するとしたら本1冊分に書き上げても足りないかも知れません。0.01秒しかかからなくても「解った」という状態は完全に理解していること。それをわざわざ本一冊分の言葉で読んだり書いたりしている間に、どれだけ先に進めるかと考えれば、すでに解り切っている事をわざわざ貴重な時間を裂く事がどれだけ無駄な事か、それこそ「感覚的に解る」必要があると思います。
熱い鍋に誤って手を触れて、瞬間的に手を引っ込める。どうして熱いと感じるのかなんて医学書一冊分かけて説明しなくても、誰でも熱いものから手を離し、危険を察知する。説明できなければ(またその説明を理解できなければ)ずっと手を離さずに悩み続けるなんていう人は居ません。
以前こちらで紹介した、「ホスピタリティ推進運動」という記事で、「セミナー終了後のアンケートで、ホスピタリティについてよく知っていたと答えたのは回答者の約10%。参加者の多くに、まだ主旨が理解されていないことが分かった」とあるけど、客商売を生業としている人達が「もてなし」という言葉と意味を理解していないはずがない。わざわざ「ホスピタリティ」なんていう馴染みの無いカタカナを使って「ホスピタリティとは何か」なんてやってる事自体、笑える。わざわざ遠回りをして時間を無駄に使い、一体本気で本題に取り組む意志はあるのかと疑いたくなる。単なる「勉強会してますよー」というアピールにしか見えない。その時間自体が勿体ない!
前置きが随分長くなってしまいましたが、今日の本題です・・・このところ「アフォーダンス」という言葉をよく見かけるようになりました。「アホ」のことを「アフォー」などという人が多い"でたらめ言語社会"の日本ですから、一瞬「アホのダンス」の事かと思いました(笑)
で、検索してみると「"与える、提供する"という意味の英語、アフォード(afford)から、米心理学者のジェームス・ギブソンが1950年代後半に作った造語。日本では佐々木正人東大情報学環教授が紹介。」とある。ウィキペディアでは「アフォーダンス(affordance)とは、環境がそこに生活する有機体に対して与える(afford)『意味』のことである。」とある。
っていうか、「affordance」ですよね?「Can't afford doing that」とかで使う、そのaffordの名詞形ですよね?「affordance」って何?って聞かれたら、辞書など引かずとも、僕にはスっと「room for posibiityじゃないの?」って言葉が出て来ます・・・つまり「可能(可能性/可能的)有余」で良いんじゃないですかね?簡単な辞書では「afford=余裕」と出て来ると思います。「アフォード=〜が出来る/〜を与える」と言っているサイトが多いみたいですが、だったら「can」や「give」で済む事ですし、先にも書いたように「可能的有余(可能な幅)」という意味合いが含まれなくなってしまう。ウィキペディアの「環境がそこに生活する有機体に対して与える(afford)『意味』のこと」っていう、「環境」とか「有機体」なんていう余計な条件をくっつけ過ぎな説明も「んんん?!」って感じがする。
「afford」という言葉を日常会話の中で普通に使っている人達から見れば、一体その言葉の定義を何で今頃わざわざ間違った受け取り方までして騒いでるの?と思うんじゃないでしょうか。そもそも、「afford」という言葉を日常会話で使いこなしていない人達が、どうしてわざわざ「アフォーダンス」という解らない言葉を使って語りたがるのかが訳解りません!日本語で「可能的有余」じゃぁ駄目なんですか?そのほうが相手に伝わりませんか?
他の記事でも度々触れていますが、英単語は辞書で引かず、耳で聞いて、全体の意味合いから単語の意味を理解して覚える自分ですから、普段使っている英単語が辞書にどう載っているかなんて知りません。そんな自分が「affordanceって何?」って聞かれたら「room for posibiity?」とすっと出て来る。たとえ学者じゃなくても、それぐらいの概念はちゃんと持っています。
扉が開くから入る、開かなければ入らない。単なるそういう事ですよね。パソコン・ソフトなどで、透過表示されて押せないボタンは、選択できなくするための簡単な工夫。押して入るトイレのドアに引くための取っ手がついていない。そういう「可能的有余」の制御は至るところに応用はされていて、別に「可能的有余」という概念が新しいわけでも複雑なわけでもありません。本を読んで「難しいなぁ」と思う人でも、見れば一瞬で解ること。
購入可能な低価格の家や車のことを「アフォーダブル・ハウス」「アフォーダブル・カー」と呼ぶのも流行っているらしい。ルー大柴?な雰囲気炸裂。しかし真顔で言ってるんですよね・・・ちょっと信じられません。
「カタカナ語の氾濫が意味するもの」(外部リンク)
「定着していないカタカナ語が半ば暴力的に使われている」には全く同感です。「日本語の中に日本人自身がわからない単語が多くなると日本人同士の議論が噛み合わないということが起こりうる。これは日本人の知的水準の低下をもたらしかねない。」とありますが、間違った意味で広がったり、意味を理解しないで使うがために認識が異なるという事は実際に起きており、僕にはすでに知的水準の低い国民に見えて仕方が無い。(参照) 格好良いと思ってわざわざ浸透していないカタカナ言葉を使っているその姿は、ちっとも格好良くなんかない。
motivateという動詞やmotivativeという形容詞の意味も知らず使いこなせない人達が「モチベーション」という言葉だけは使いたがる。「アフォーダンス」も「afford」という言葉を英会話の中で普通に使いこなせる能力のある人が、思わず口をついて出てしまうのなら解るけど、元の意味を理解していない人達が、言葉の意味から定義するのは、ものすごく時間の無駄。まるで勉強の出来ない人が「勉強して難しい言葉使って難しい事考えてますよー」とアピールするための時間?という気がしないでもない。つまり、「これからわざわざ時間をかけて失敗しようとしている人達」を見る気分なのです。
関連記事:「なるべく伝わらない言葉で伝えましょう」と教わりましたか?
デザインの質は消費者が認めて育ててくれている
2009.05.22 *Fri
自分が行った事が無い、世界中のどんな場所に行っても、そこには常に多くの人達がその時間を楽しみ、その価値にお金を払っている。その間、自分は一体何をしているだろうかと考えてみると良い。
こちらの記事などで、デザイナーは自らの驕り(おごり)に気付くべきという事を語りましたが、一般人に対して「デザインというものの存在自体を解っていない」という大前提で上から目線で語っているブログが後を絶ちません。
自分の制作者としてのポジションを今一度振り返ってみても、僕はひたすら「自分より優れた感性や知識や経験を持っている多くの人達に感動してもらえるもの」を作ろうとしています。そうでないと、自分自身が次のレベルへと進んで行けません。自分より感性の乏しい人達に向かってしかプロぶる事しか出来ないとしたら、自分の才能と未来の無さの証明であると思うのです。
すでに何度となく批判している「デザインは世の中のいろんなモノやコトに存在するのです」なんて偉そうに言っている人達の、行動範囲や時間や経験の質ってどうなんですか?と問いたい。デザインを作る人だからと言って、あなた自身、世の中のあらゆる質の高いデザインに触れて、暮らしという時間の質に換えていく事が出来ているのですか?!と声を大にして問いたいのです。デザインの事は専門的に勉強したので、すべて解ってる?馬鹿にするのもいい加減にしなさい。
もの作りをする人間としての僕に革命を起こしたのは、自分なんかより時間的にも距離的にも多くを体験し、本当に良いものに当たり前のように時間とお金を費やして、人生そのものを楽しんでいる人達との出会いでした。そういう人達と話をしても、自分は経験的にも対等な話が出来なかった。デザインのプロだからって、そんな場所でデザインの技術や作業の話なんかしても何の意味も無く、本で読んだだけの理論や知識なんて、彼らの実体験による言葉に比べたら、何の説得力もありません。例えば、いくらウェッジウッドの制作の理論を本で読んで知っていても、自分は買わず、使わず、時間として体験しないのでは、それらすべて実行している人達には全く敵わないのです。作る人間である自分はウェッジウッド側の人間なのだという甚だしい勘違いをしてやり過ごさない限り、恥ずかしくてとてもその場には居られません。その豊かな時間は、ウェッジウッドと、それに実際に高い金を払って生活の中に取り入れているユーザーとの間に生まれる時間(経験)的な価値であって、買いもせず使いもせず、その時間の質さえ大切にしない者が「自分も作る人間」などと便乗するずうずうしさを、あまりにも多く目撃してしまうのです。
無知で無経験だった頃の自分なら「世の中を引っ張って行くデザイン」なんて言っていたかも知れません。でも今は「自分より感性&経験豊かな人達と調和すること」を「目標」にしています。「引っ張って行く」なんて、自分がそれらすべての人達より遥かに勝っていると勘違いしなければ言える台詞ではありません。多くの素晴らしいものを知って、その時間を過ごす事を実践している人達と、出来る限り同じ経験をする努力をして、そこに隠されたクオリティの作り出す「幸福」とか「人生に変わって行く時間」とか、そういうものを真剣に感覚的に取り入れる必要があり、それをしなければ本物など作れないし、作る資格も無いと思っています。
だから制作の作業に充てる時間なんかよりも、学びのための時間のほうが多い。自分の求めるレベル、そして自分の足りなさを知り、その必要があると自覚しているからです。
デザインの質は消費者が認めて育ててくれているのですよ。審査員とコンテスタントみたいなものです。もちろん消費者が審査員。消費者に与えてあげてる、動かしてあげてるなんていう勘違いしてる者の作るものなど、単にヒットした物の後出しコピーか、(先の例のように)本物の才能を持った人と同等だと勘違いしてるだけでしょう。自分が作ったもので世の中が実際に動くとしたら、それを見せてくれと言いたい。質の高い人達と調和しないと、質の高いものなど作れない(とりうより、認めてもらえない/受け入れてもらえない)ですよ。質の高い人達など相手にしていないと言うのなら別ですけどね(笑)大概「デザインは世の中の色々なものに存在するのです」とか「注意して見てみるとデザインの存在が解りますよ」なんて馬鹿にした事を言ってるのですぐに解りますが。しかし、どうしてここまで集団でパターンが同じなのかなと不思議に思います。
「色・形・材質」なんていう狭い視野でデザインやクオリティを語ってる時点ですでに間違ってる。そういうものが日本の文化レベルを低くしている。
関連記事:自分は大切にしないものを、人に「大切にしてみてはいかがでしょうか」と提案?
HUMAN+NATURE
2009.04.30 *Thu
僕の失われた沢山のYouTubeビデオですが、オリジナル・テープからビデオ・ファイルに変換し直して、少しずつ再アップロードして行こうと思います。
(再生中に「HQ」ボタンをクリックすると、より鮮明な画質で観れます。)
これは去年の7月に撮影した映像。自然の形や色や構図が織り成す美しさと、そのパワーを目の当たりにすると、「とても自分の作品で表す事など出来ない」と圧倒されまくりなのですが、同時にそれに挑戦し続けるパワー(意欲)も生まれる。
ビデオの初めのほうで空のほうにカメラを向けて撮っている人が居たので、自分もその場所に行って、その人がカメラに残したかった風景を同じアングルから見てみる。すると、そこには別の場所からは見る事が出来なかった、空に向って伸びる幹と、花火のように広がる枝が、完璧な構図で目の中に飛び込んで来る。あの人の心に訴えた美の感動が、自分の中でも確認できる。僕はリサーチや参考書などに頼らない。同じ感動を心に刻めなければ「解った」とは言えないから。それを言葉や数字で言い表せなくたっていい。
このビデオを載せた時の記事を下に付け加えておきます。(知らず間にとても多くの拍手を寄せていただき、驚きました!):
『デザインという個人プレイのエゴイズム』
自然の美しさ、それに調和する事にひとりよがりな意図など存在しない。言葉さえ要らない。個人が小さな頭の中だけで思いつく発想など、とても無力なもの。
時々拝見させていただいている学生さんのブログで「"デザイン意図"という独りよがりなものが入っていなければいないほど良いと思う。良さを理解するためにたくさんの言葉が必要なデザインも好きじゃない」というエントリーがありました。僕もその通りだと思っています(というか、学生さんでそこまで洞察力があるというのは凄いと、いつも感心しています)。デザイン(芸術も)は言葉でコンセプトを説明しなくとも、感覚的に解るものでなければいけないし、偉い肩書きを持った先生が「これが良いデザインというものです」と決めるものでもなく、多くの感性豊かな消費者/鑑賞者/ユーザーとシンクロナイズ(同調・調和)するところに"価値"が生まれるものだと思う。あえて「デザインの価値」とか「物の価値」と書かないのは、そのものではなく、存在自体の価値や,存在する時間の価値なども含む必要があるからです。
以前『言葉にできないこと』というエントリー(←コメント欄も面白い展開になってますので、是非目を通してみてください)を書きましたが、我々の仕事は言葉で表せない部分で共感してもらえる事がとても大事です。日本のようにTVで「笑うところですよ」的に字幕が出るような事が当たり前になっている社会で、言葉で補足すれば伝わる(むしろ説明するほうが親切)と思い込んで、隙間があれば説明で埋め尽くすようなメディアは洗練されていないし、作る側の能力の無さにもかなり疑問を感じます。言葉の通じない外国でも同じクオリティで受け入れられるか、それが意外と良いチェックポイントかも知れません。作る側だけで「こういうのが良いデザインなのですよ」なんて言ってるのは、とても傲慢な行為だと思います。良さなどというものは消費者の感性や生活の中にしか存在しないと思うのです。
さて、このブログではすでに「名トピック」となっている「缶のデザインが悪いので飲みたい気にならないのです」という、消費者と掛け離れた感覚の"迷言"を述べた方も、デザイン業界で"先生"と呼ばれる方のようですが、最近あるサイトでインタビューを受けたそうで、その中でブログに関して:
>ブログにはコメントを寄せないけど結構見ているという沈黙の
>リピーターがいてモニタリングしているんです。だから主義主
>張が一貫してないなど、ちょっとしたきっかけで非難が出た場
>合、私も私もという具合に溜めていたものが吐き出されて雪崩
>現象が起こるんです。そういう類いの内容がブログとして適切
>かどうかですよね。私は避けています。(中略)ブログに起承
>転結があるとすれば、起承・・・までぐらいしか書かないです。
と述べておられたのだけど、その「缶のデザインが良く無いので飲みたい気になりません」という"起承"の段階ですでにお粗末な場合はどうしようもありません(というより、この場合「起→結」になってます)。それって単なる「言い捨て」であり「決めつけ」(つまりデザインが良く無いという決めつけと、だから買う気の起こらない物という二重の否定)ですよね。「起承ぐらいまでしか書かない」というのはいかにも聞こえは良いですが,結局は「頭ごなしの否定をしておいて、放ったらかし」という事です。「主義主張が一貫してないなど、ちょっとしたきっかけで非難が出た場合」と、まるで主張が一貫していないという事を「ちょっとした事」のように述べてますが、ものを論じる上で主張の一貫性の無さは最も致命的な事です。「こんな色を使っているからダメだ」とか「こんなイラストだからダメだ」とデザインを否定、さらにそれが「買いたくならない理由」と決めつけて、周りの人達も「先生のおっしゃる通り、私も買いたい気持になりませんでした!」みたいな感じです。結果的にはその商品は成功して「ヒット商品開発事例セミナー」まで開かれる位の大ヒットになりました。「それでも良いデザインとは思えません」と我を通すのは勝手ですが、その独りよがりな定義って一体何(誰)のためなのでしょうか。そのお粗末なデザイン論に苦言を呈す僕のような人間は「沈黙のリピーター」とか「雪崩を起こす奴」と言われてしまうのでしょう。もしもこれが"生徒"の意見だったらと考えると、問題はもっと深刻です。先生に反発したら成績にも響くだろうし、下手したら将来に関わる傷となるかもしれません。僕は決して個人的な批判をしたいのではなく、業界の体質に関する問題点を掲げているだけです。「こんなデザイナーが多い業界が問題」というのは、当然その行為をしている人達が圧倒的に多いわけであって、必ずそういう人達に多くぶち当たります。しかしそれは避けられない事です。そもそも「起承ぐらいまでしか書かない」なんて、よくある「○○が発売されたよ〜。私は個人的に好きではないですけど」みたいな、幼稚な戯言と何ら変わらず、発言にも責任を持ってないし、そういうのを「デザイン的考察」なんて謳う事自体、とてもおかしい。
もう一度言います・・・多くの感性豊かな消費者/鑑賞者/ユーザーとシンクロナイズ(同調・調和)するところに価値が生まれるものだと思います。偉い肩書きを持った先生が「これが良いデザインというものです」と決めるものではありません。良いデザインという名目で定義づける事や数値に置き換える事は可能のようにも思われがちですが、その地点で人々の感覚的なものを無視していると思います。
某フェイマスなスクールの勧誘ハガキの美的センス・テストみたいなものに「どちらの構図が正しいでしょう」みたいなものがありますが、真逆を選んでも結果的にそのセンスで人々をアッと言わせるようなものを作る方が頼もしい人間だと思いますね(笑)まぁ、あのハガキ自体、「こちらを選んだあなたは美的センス、バッチリ!是非当校でそのセンスに磨きをかけてみて!」「こちらを選んだあなたは基礎的レッスンが必要です!是非当校でセンスを磨いてみては!」という、人を馬鹿にした、いやらしい勧誘(広告)でしか無いですけどね。
「伝えることの難しさ」とデザイナーがすぐ頭を抱えますが、頭で考えずに感覚で客観的に「解る」ことが大事だと思います。「言葉でレポートできなければ解っていない」というものではありません。感動こそ最大の理解。人として、人を騙すような宣伝や、傲慢な気持の入ったものに、好感など持てるはずがありません。自分は大切にしないものを、人に「大切にしてみてはいかがでしょうか」と提案するような矛盾したものにも、感性豊かな消費者は魅力を感じるわけがありません。それを一番解っていないのは、日々の生活の質を大切にしないデザイナーたちだったりする。「つくる人」なんていう肩書きに、いい気になって居座ってはいけない。
言葉の選び方や定義ではなく、純粋で矛盾の無い本当の心の波動を込めればいい。それは一人では学ぶ事など出来ず、常に人々の笑顔や感動のある豊かな時間の中で、感覚的に学ぶ必要がある。
(再生中に「HQ」ボタンをクリックすると、より鮮明な画質で観れます。)
これは去年の7月に撮影した映像。自然の形や色や構図が織り成す美しさと、そのパワーを目の当たりにすると、「とても自分の作品で表す事など出来ない」と圧倒されまくりなのですが、同時にそれに挑戦し続けるパワー(意欲)も生まれる。
ビデオの初めのほうで空のほうにカメラを向けて撮っている人が居たので、自分もその場所に行って、その人がカメラに残したかった風景を同じアングルから見てみる。すると、そこには別の場所からは見る事が出来なかった、空に向って伸びる幹と、花火のように広がる枝が、完璧な構図で目の中に飛び込んで来る。あの人の心に訴えた美の感動が、自分の中でも確認できる。僕はリサーチや参考書などに頼らない。同じ感動を心に刻めなければ「解った」とは言えないから。それを言葉や数字で言い表せなくたっていい。
このビデオを載せた時の記事を下に付け加えておきます。(知らず間にとても多くの拍手を寄せていただき、驚きました!):
『デザインという個人プレイのエゴイズム』
自然の美しさ、それに調和する事にひとりよがりな意図など存在しない。言葉さえ要らない。個人が小さな頭の中だけで思いつく発想など、とても無力なもの。
時々拝見させていただいている学生さんのブログで「"デザイン意図"という独りよがりなものが入っていなければいないほど良いと思う。良さを理解するためにたくさんの言葉が必要なデザインも好きじゃない」というエントリーがありました。僕もその通りだと思っています(というか、学生さんでそこまで洞察力があるというのは凄いと、いつも感心しています)。デザイン(芸術も)は言葉でコンセプトを説明しなくとも、感覚的に解るものでなければいけないし、偉い肩書きを持った先生が「これが良いデザインというものです」と決めるものでもなく、多くの感性豊かな消費者/鑑賞者/ユーザーとシンクロナイズ(同調・調和)するところに"価値"が生まれるものだと思う。あえて「デザインの価値」とか「物の価値」と書かないのは、そのものではなく、存在自体の価値や,存在する時間の価値なども含む必要があるからです。
以前『言葉にできないこと』というエントリー(←コメント欄も面白い展開になってますので、是非目を通してみてください)を書きましたが、我々の仕事は言葉で表せない部分で共感してもらえる事がとても大事です。日本のようにTVで「笑うところですよ」的に字幕が出るような事が当たり前になっている社会で、言葉で補足すれば伝わる(むしろ説明するほうが親切)と思い込んで、隙間があれば説明で埋め尽くすようなメディアは洗練されていないし、作る側の能力の無さにもかなり疑問を感じます。言葉の通じない外国でも同じクオリティで受け入れられるか、それが意外と良いチェックポイントかも知れません。作る側だけで「こういうのが良いデザインなのですよ」なんて言ってるのは、とても傲慢な行為だと思います。良さなどというものは消費者の感性や生活の中にしか存在しないと思うのです。
さて、このブログではすでに「名トピック」となっている「缶のデザインが悪いので飲みたい気にならないのです」という、消費者と掛け離れた感覚の"迷言"を述べた方も、デザイン業界で"先生"と呼ばれる方のようですが、最近あるサイトでインタビューを受けたそうで、その中でブログに関して:
>ブログにはコメントを寄せないけど結構見ているという沈黙の
>リピーターがいてモニタリングしているんです。だから主義主
>張が一貫してないなど、ちょっとしたきっかけで非難が出た場
>合、私も私もという具合に溜めていたものが吐き出されて雪崩
>現象が起こるんです。そういう類いの内容がブログとして適切
>かどうかですよね。私は避けています。(中略)ブログに起承
>転結があるとすれば、起承・・・までぐらいしか書かないです。
と述べておられたのだけど、その「缶のデザインが良く無いので飲みたい気になりません」という"起承"の段階ですでにお粗末な場合はどうしようもありません(というより、この場合「起→結」になってます)。それって単なる「言い捨て」であり「決めつけ」(つまりデザインが良く無いという決めつけと、だから買う気の起こらない物という二重の否定)ですよね。「起承ぐらいまでしか書かない」というのはいかにも聞こえは良いですが,結局は「頭ごなしの否定をしておいて、放ったらかし」という事です。「主義主張が一貫してないなど、ちょっとしたきっかけで非難が出た場合」と、まるで主張が一貫していないという事を「ちょっとした事」のように述べてますが、ものを論じる上で主張の一貫性の無さは最も致命的な事です。「こんな色を使っているからダメだ」とか「こんなイラストだからダメだ」とデザインを否定、さらにそれが「買いたくならない理由」と決めつけて、周りの人達も「先生のおっしゃる通り、私も買いたい気持になりませんでした!」みたいな感じです。結果的にはその商品は成功して「ヒット商品開発事例セミナー」まで開かれる位の大ヒットになりました。「それでも良いデザインとは思えません」と我を通すのは勝手ですが、その独りよがりな定義って一体何(誰)のためなのでしょうか。そのお粗末なデザイン論に苦言を呈す僕のような人間は「沈黙のリピーター」とか「雪崩を起こす奴」と言われてしまうのでしょう。もしもこれが"生徒"の意見だったらと考えると、問題はもっと深刻です。先生に反発したら成績にも響くだろうし、下手したら将来に関わる傷となるかもしれません。僕は決して個人的な批判をしたいのではなく、業界の体質に関する問題点を掲げているだけです。「こんなデザイナーが多い業界が問題」というのは、当然その行為をしている人達が圧倒的に多いわけであって、必ずそういう人達に多くぶち当たります。しかしそれは避けられない事です。そもそも「起承ぐらいまでしか書かない」なんて、よくある「○○が発売されたよ〜。私は個人的に好きではないですけど」みたいな、幼稚な戯言と何ら変わらず、発言にも責任を持ってないし、そういうのを「デザイン的考察」なんて謳う事自体、とてもおかしい。
もう一度言います・・・多くの感性豊かな消費者/鑑賞者/ユーザーとシンクロナイズ(同調・調和)するところに価値が生まれるものだと思います。偉い肩書きを持った先生が「これが良いデザインというものです」と決めるものではありません。良いデザインという名目で定義づける事や数値に置き換える事は可能のようにも思われがちですが、その地点で人々の感覚的なものを無視していると思います。
某フェイマスなスクールの勧誘ハガキの美的センス・テストみたいなものに「どちらの構図が正しいでしょう」みたいなものがありますが、真逆を選んでも結果的にそのセンスで人々をアッと言わせるようなものを作る方が頼もしい人間だと思いますね(笑)まぁ、あのハガキ自体、「こちらを選んだあなたは美的センス、バッチリ!是非当校でそのセンスに磨きをかけてみて!」「こちらを選んだあなたは基礎的レッスンが必要です!是非当校でセンスを磨いてみては!」という、人を馬鹿にした、いやらしい勧誘(広告)でしか無いですけどね。
「伝えることの難しさ」とデザイナーがすぐ頭を抱えますが、頭で考えずに感覚で客観的に「解る」ことが大事だと思います。「言葉でレポートできなければ解っていない」というものではありません。感動こそ最大の理解。人として、人を騙すような宣伝や、傲慢な気持の入ったものに、好感など持てるはずがありません。自分は大切にしないものを、人に「大切にしてみてはいかがでしょうか」と提案するような矛盾したものにも、感性豊かな消費者は魅力を感じるわけがありません。それを一番解っていないのは、日々の生活の質を大切にしないデザイナーたちだったりする。「つくる人」なんていう肩書きに、いい気になって居座ってはいけない。
言葉の選び方や定義ではなく、純粋で矛盾の無い本当の心の波動を込めればいい。それは一人では学ぶ事など出来ず、常に人々の笑顔や感動のある豊かな時間の中で、感覚的に学ぶ必要がある。
身の程を知るからこそ
2009.04.18 *Sat
ある中堅デザイナーさんのブログ(サイトだったかな?)のトップページに「忙しさを極めている」という、自慢だか恥知らずだか解らない表現があり、「そんな事、極めなくて良いですから!(笑)」と思った。一体どんな反応を期待してその言葉を公に発しているのか謎です。「忙しい=売れっ子=才能がある」でしょうか?そんな事より「こんな仕事をしています」と見せてくれれば良いと思う。
「自分はまだまだだから」とか「大物の方々は制作の時間を沢山持てるのでしょうね」とか勝手に線を引いて決めつけながら、そんな「まだまだ」な身分で、大物でさえやらない程の多くの仕事を詰め込んで「忙しい」と言っている人達は一体、誰の為に何をやりたいのか、とても理解に苦しみます(というか、自分の収入の安定の事しか考えて無いのでしょう)。そんな状態でこなせる仕事など、安いに決まっているし、時間をかけられるわけがありません。「時間と予算があったらもっと良いものを作れる」ですって?ふざけるのもいい加減にして欲しいです。寝る暇も、潤いのある時間も持たない、そんな状態で作った物(安物)を世の中に送り出して平気でいられる精神が、すでに駄目なんです。物づくりはそれに取り組む環境づくり・精神づくりから始まっています。何が大切なのかという事にどれだけ早く気付くことが出来るか、そしてその精神に磨きをかけるか・・・それが本物になる秘訣でしょう。セミナーに出れば勉強した気になれる人達と、セミナーを開けば一流だと思ってる似非プロが、日本の現場にはあまりにも多い気がする。そういう人種は、現場がどれだけ酷いかという現実を問題視する事は避けてばかりいる。
以前、二言目には「いくら良い物を作ったとしても」という言葉を出す人達を批判しましたが、本当に良い物を作る人達は決してそんな言葉は出て来ません。無能な者ほど、そんな言い訳がましい言葉を真っ先に言うものです。これはある意味、人を見るバロメーターになりますね。「いくら良い物を作ったとしても」というのは「だから良い物を作らない」という開き直り言葉(作れない言い訳)である事は一目瞭然です。
本当に凄い人達は、凄いものを作れる環境から作っている。時間(作業の時間の事だけではありません)をかけなければ良いものを作れない、だから時間をかけるという事をちゃんとやっている。自身の身の程を知っているからこそ、自分の最善の努力を発揮できる道を選択する。生きている間に"偉大"と呼ばれている人達から学ばせてもらった事。
「自分はまだまだだから」とか「大物の方々は制作の時間を沢山持てるのでしょうね」とか勝手に線を引いて決めつけながら、そんな「まだまだ」な身分で、大物でさえやらない程の多くの仕事を詰め込んで「忙しい」と言っている人達は一体、誰の為に何をやりたいのか、とても理解に苦しみます(というか、自分の収入の安定の事しか考えて無いのでしょう)。そんな状態でこなせる仕事など、安いに決まっているし、時間をかけられるわけがありません。「時間と予算があったらもっと良いものを作れる」ですって?ふざけるのもいい加減にして欲しいです。寝る暇も、潤いのある時間も持たない、そんな状態で作った物(安物)を世の中に送り出して平気でいられる精神が、すでに駄目なんです。物づくりはそれに取り組む環境づくり・精神づくりから始まっています。何が大切なのかという事にどれだけ早く気付くことが出来るか、そしてその精神に磨きをかけるか・・・それが本物になる秘訣でしょう。セミナーに出れば勉強した気になれる人達と、セミナーを開けば一流だと思ってる似非プロが、日本の現場にはあまりにも多い気がする。そういう人種は、現場がどれだけ酷いかという現実を問題視する事は避けてばかりいる。
以前、二言目には「いくら良い物を作ったとしても」という言葉を出す人達を批判しましたが、本当に良い物を作る人達は決してそんな言葉は出て来ません。無能な者ほど、そんな言い訳がましい言葉を真っ先に言うものです。これはある意味、人を見るバロメーターになりますね。「いくら良い物を作ったとしても」というのは「だから良い物を作らない」という開き直り言葉(作れない言い訳)である事は一目瞭然です。
本当に凄い人達は、凄いものを作れる環境から作っている。時間(作業の時間の事だけではありません)をかけなければ良いものを作れない、だから時間をかけるという事をちゃんとやっている。自身の身の程を知っているからこそ、自分の最善の努力を発揮できる道を選択する。生きている間に"偉大"と呼ばれている人達から学ばせてもらった事。

















