今日はうちのハウスホストさんがレイチェル・レイのお気に入りレシピでパスタソースを作り、食後にゴードン・ラムジーの番組を観ながら、最近行ったレストランの話などして、食・文化・様式美などに話題が集中しました。
その時「シェフの料理は最高。しかし店員の対応がそれに相応しく無い場合は残念」という話をしました。シェフの料理は腕とセンス。店員(ウェイター/ウェイトレス)は接客するわけですが、「この人は客として格式高いレストランを経験して居ないな」とピンと来る人にたまに出会います。客のほうが日頃から良いレストランに通い、クオリティを知っているとそういう事が起こります。
良いレストランほどDirty Dish(食べ終えた皿)を片付けるのが早いですが、流石にゴードン・ラムジーの店の店員は驚くほど早かったです。「このタイミングは何!」と感動するほどの絶妙なタイミングで、食べ終わるとすぐに皿を持ち去ります。食事を出す時も、同じテーブルのどちらの客が先に出されるという事が無いように、人数分のウェイターが同時にテーブルに置き、同時に蓋を開けるという、とてつもない細かな神経。逆に酷いほうでは、有る程度立派な店構えのそれなりの値段の店であっても、グラスのワインが無くなっていても注ぎに来なかったり、しびれを切らし、ウエイターを止めて「ワインをお願いします」と言うと「同じものでよろしいですか」などと頓珍漢な事を言われたりする←ボトルでオーダーしたワインの中身がまだたっぷりあるのに、グラスワインをオーダーしたと思い込んでいる。失態の二重奏。←ちなみにこれは日本のお店です。電話予約時に「予約には料金がかかります」と言われたのですが「え?普通、予約してくれたほうが店としては助かるんじゃないの?」と疑問に思いつつ、それでもそれなりの料金を払うのだからとサービスに期待していたら、この始末です(汗)このようにシェフの料理の腕とは別に、オーナーやマネージャーの精神がイマイチという残念な店もあります(ウェイターの質に現われる)。
中には従業員を引き連れて社員研修として外で食事会を開いたりする店もあると思います。しかし理想はやはり、仕事とは関係なしに、普段から客として良いレストランで過ごして、客としての経験を積んで欲しいです。もちろんそれには高い金を払わなければなりません。高い金を払って大切な時を過ごす客の身になってこそ解る大切な事は沢山あります。もちろん客は勉強のためではなく、良いものに対する純粋な情熱を持って足を運び、貴重な時間と金を費やします。先生が引率する幼稚園の遠足のような研修で知っても本物とは言えないと思うのです。マニュアルで知るなんて言うのはもちろん問題外です。「美しいレストランと素晴らしい料理が大好きで、毎週のようにハイクラスな店を見つけては足を運んでしまう!」というウェイターが居たら、その情熱は本物でしょうね。
僕はブログで食を取り上げる事が多いですが、そこには最高のクオリティを極めようとするシェフの哲学や情熱、そして人と過ごす幸せな時間、さらに食を通じての文化(歴史・風習)など、人間が大事に培って来たものが凝縮されているので、クリエイティヴな仕事をやって行く上でとても勉強になるのです。
しかしこういった事を理解しようとしない批判的な意見を見かける事もあります。単なる「贅沢」で片付けたり「飽食」などという言葉をわざわざ使って、無駄に捨てられて行くファストフードやコンビニ弁当の残飯とわざと混合して、闇雲に批判する輩はクリエイターの中にも意外と多いです。ミシュラン東京版が出た時が特に酷かったです。実物を知りもせず、閉じこもって空想だけで語ってるタイプの人達です。「食」を「腹が満たすもの」としか考えないのでしょう。
食は文化であって「たべもの」単品ではありません。食のための空間、その場所に訪れる人達の身なり、インテリア、歴史的様式美、その空間を包む建物、さらに街並という風に、美しい街の一部、幸せな人々の一部という考え方は出来ないものでしょうか。
クオリティで人を楽しませる。そして良いものを求める側になる。時間の中に価値を持つ。その価値に金を払う・・・良い店はどこもいつも客でいっぱいです。そんな実体験をせずに、想像だけで語れるなら、誰も人生賭けてクオリティなど追究しないし、誰もお金など払いません。
人々にクオリティを提供する側のクリエイターたちが、一番その価値を解っていない。「私は買いませんが」「私は行きませんが」という言葉が平気で出て来るクリエイターのブログを見ると、どこかからの情報の引用ばかりです。実体験をしなくても想像だけで語れるから、人生賭けてクオリティを追究しないし、お金など払わないのでしょうか。
「時間がありません」は「情熱がありません」に等しいと思います。
その時「シェフの料理は最高。しかし店員の対応がそれに相応しく無い場合は残念」という話をしました。シェフの料理は腕とセンス。店員(ウェイター/ウェイトレス)は接客するわけですが、「この人は客として格式高いレストランを経験して居ないな」とピンと来る人にたまに出会います。客のほうが日頃から良いレストランに通い、クオリティを知っているとそういう事が起こります。
良いレストランほどDirty Dish(食べ終えた皿)を片付けるのが早いですが、流石にゴードン・ラムジーの店の店員は驚くほど早かったです。「このタイミングは何!」と感動するほどの絶妙なタイミングで、食べ終わるとすぐに皿を持ち去ります。食事を出す時も、同じテーブルのどちらの客が先に出されるという事が無いように、人数分のウェイターが同時にテーブルに置き、同時に蓋を開けるという、とてつもない細かな神経。逆に酷いほうでは、有る程度立派な店構えのそれなりの値段の店であっても、グラスのワインが無くなっていても注ぎに来なかったり、しびれを切らし、ウエイターを止めて「ワインをお願いします」と言うと「同じものでよろしいですか」などと頓珍漢な事を言われたりする←ボトルでオーダーしたワインの中身がまだたっぷりあるのに、グラスワインをオーダーしたと思い込んでいる。失態の二重奏。←ちなみにこれは日本のお店です。電話予約時に「予約には料金がかかります」と言われたのですが「え?普通、予約してくれたほうが店としては助かるんじゃないの?」と疑問に思いつつ、それでもそれなりの料金を払うのだからとサービスに期待していたら、この始末です(汗)このようにシェフの料理の腕とは別に、オーナーやマネージャーの精神がイマイチという残念な店もあります(ウェイターの質に現われる)。
中には従業員を引き連れて社員研修として外で食事会を開いたりする店もあると思います。しかし理想はやはり、仕事とは関係なしに、普段から客として良いレストランで過ごして、客としての経験を積んで欲しいです。もちろんそれには高い金を払わなければなりません。高い金を払って大切な時を過ごす客の身になってこそ解る大切な事は沢山あります。もちろん客は勉強のためではなく、良いものに対する純粋な情熱を持って足を運び、貴重な時間と金を費やします。先生が引率する幼稚園の遠足のような研修で知っても本物とは言えないと思うのです。マニュアルで知るなんて言うのはもちろん問題外です。「美しいレストランと素晴らしい料理が大好きで、毎週のようにハイクラスな店を見つけては足を運んでしまう!」というウェイターが居たら、その情熱は本物でしょうね。
僕はブログで食を取り上げる事が多いですが、そこには最高のクオリティを極めようとするシェフの哲学や情熱、そして人と過ごす幸せな時間、さらに食を通じての文化(歴史・風習)など、人間が大事に培って来たものが凝縮されているので、クリエイティヴな仕事をやって行く上でとても勉強になるのです。
しかしこういった事を理解しようとしない批判的な意見を見かける事もあります。単なる「贅沢」で片付けたり「飽食」などという言葉をわざわざ使って、無駄に捨てられて行くファストフードやコンビニ弁当の残飯とわざと混合して、闇雲に批判する輩はクリエイターの中にも意外と多いです。ミシュラン東京版が出た時が特に酷かったです。実物を知りもせず、閉じこもって空想だけで語ってるタイプの人達です。「食」を「腹が満たすもの」としか考えないのでしょう。
食は文化であって「たべもの」単品ではありません。食のための空間、その場所に訪れる人達の身なり、インテリア、歴史的様式美、その空間を包む建物、さらに街並という風に、美しい街の一部、幸せな人々の一部という考え方は出来ないものでしょうか。
クオリティで人を楽しませる。そして良いものを求める側になる。時間の中に価値を持つ。その価値に金を払う・・・良い店はどこもいつも客でいっぱいです。そんな実体験をせずに、想像だけで語れるなら、誰も人生賭けてクオリティなど追究しないし、誰もお金など払いません。
人々にクオリティを提供する側のクリエイターたちが、一番その価値を解っていない。「私は買いませんが」「私は行きませんが」という言葉が平気で出て来るクリエイターのブログを見ると、どこかからの情報の引用ばかりです。実体験をしなくても想像だけで語れるから、人生賭けてクオリティを追究しないし、お金など払わないのでしょうか。
「時間がありません」は「情熱がありません」に等しいと思います。


