
帰省中、信号待ちの時に車の窓から見えた「公明党」のポスターに目を疑ってしまった。「元気がないんじゃない。元気のやり場がないだけだ。」
・・・そんな言い訳メッセージをわざわざポスターで掲げている?!しかし後でネットで調べてみたら、これは若者たちの事(彼らの言葉という設定)だそうだ。左下に小さな文字で「ワカモノがイキイキする職場をつくるのも政治の役割です」と書いてあるらしい。そんなサブ・コピー、遠くから見えるかっ!→参考記事 生活基盤を破壊することにより国民から気力を喪失させ、若者が希望を持てなくなるような社会の状況をつくって来た張本人たちの宣伝広告にしてはあまりにお粗末。日本の政治のダメさ加減を象徴するかのよう。

こういうポスター制作に関わってるデザイナーたちも、こういうゴミを作っておきながら「デザインのチカラ」とか「デザインにできるコト」なんて言っちゃってるんだろうなぁ。見る人の気持ちとは掛け離れた感覚じゃないか?見る人を最初から見くびっているかのような、「伝える側の感覚が正しい」という大前提で言い切る、傲慢な押し売り的行為。
こちらの「無意識の中に入っていく醍醐味とは」というところに:
『手帳のデザインに必要なのは、もっと微妙なものだと
思うんです。僕自身が手帳を選ぶとしたら、罫線の細さ
とか色とか、どこで罫線が止まっているかとか‥‥もち
ろん僕はデザイナーだからそういう、ごく細かいところ
まで見るんですが、普通の人も、なんとなく、でもちゃ
んと感じていることだと思います。手帳の中にある、い
ろんな情報を受け取って、そのトータルで、あ、これ、
いい、って判断してる。デザイナーはそれを言語化した
り分析したりするんですが、それはプロだからわかると
いうことではなく、人はみな、それを感じているはずな
んです。それを「感じていない」という前提でデザイン
する、人の感覚を信じないデザインが、世の中には多過
ぎるような気がしますね。でも、0.1ミリと0.15ミリは
やっぱり違う。言葉にはならないけど、なんとなく違う
ことは、みんなわかっていると思います。- 中略 -
じつはそれって、ものすごく微妙なことだと思うんです
よ。そのデリケートなところを、人はちゃんと受け取っ
ている。』
とある。これはデザイナーたちが優れた商品としてよく話題に取り上げている「ほぼ日手帳」をデザインした方の言葉。
以前取り上げた、デザイナーの「ユーザーのニーズさえ調査すれば、体験する必要などないのですよ。(このアドバイス)参考になりましたか?」とか「顧客はデザインの事など意識しないで購入しているのが現状」などという「何様?」と思うようなデザインのプロたちの言葉とは対照的。要するに、良いデザインが出来る人は、それを見る人達を見くびっていない。身勝手なデザインを作る人は、それを見る人達よりも自分の感覚が優れているという事が大前提になっている。とても解り易い。
デザインブログ村に「クリエイターや業界の問題点」というコミュニティを立てましたが、ほとんど人が寄り付かず、まるで僕ひとりで問題提示しているかのような状態です。問題だと思っていないのか、問題があっても放ったらかしかのどちらかだと思いますが、あまりに情けないと思う。
一方、はてなブックマークでは『自分は大切にしないものを、人に「大切にしてみてはいかがでしょうか」と提案?』とか『お馬鹿の二乗』などの記事が、話題記事として取り上げられ、アクセスが普段の10倍以上という状態が続きました。皆「これはひどい」と感じてくださったようです。ここ数日間では『PASSION - 気付く人・築く人』のエントリーが取り上げられ始めているようです。見ている方々はデザイナーばかりではないと思います。こういう事を「デザインブログ村」で取り上げても誰も反応しないというのがむしろ異常で、それが現場でデザインする人達の現状なのでしょう。
「ほぼ日手帳」の記事を発見したのは、ブログ村でこちらの記事を見かけたからなのですが、他にも:
『いまとても気になる事があります。それは一人一人
の意識や行動の中から「感じる」ことが消えかかって
いる事です。知る事にはとても熱心なのに。不思議で
す。- 中略 - 「五感に触れるものが全て情報である
事」と「その触れる感覚的な部分が創造性に不可欠だ」
ということを忘れているようです』
という言葉が引用されていました。デザインする以前に、こういう事が何よりも大切であると気付く人が千人に一人でも居てくれたら、少しは救われる。しかし大切にしていない人達の多さに失望させられる事には変わりは無い。僕のブログは、デザインという作業以前に、自ら五感に触れて感覚を磨いて、そして感動して、それを知っている人達と同じ感動を共有しながら、彼らの求めるものを作るヒントをいただいているという日々を綴っているものです。しかしブログ村のデザイナーたちって、「感じる」という事さえ机の上、ネットで得る情報だけで出来る事だと信じている。確かに頭で思う事は空想でも妄想でも可能でしょう。その程度の「感じる」で済ませてしまっている。
こちらの記事で、お金を時間を使って良いものを堪能しにいく人々を勝手に別の人種と括り、「無論、自分はそんな金も時間も持ち合わせていないので」で済ませ、想像だけでピンボケなデザイン的見解を上から目線で語る。そんな人達が集まってる場所で何を言っても、もはや無駄なのかと僕は感じ始めている。2年間継続的に努力しましたが、彼らには集団で問題解決(これこそが創造を通じて世の中を良くするという事!)に取り組む気など無く、自分本位の狭い価値観でしか行動していない。
「ボウリングがオリンピック種目にならない原因はピンのデザインにある」・・・本気なのか?(笑)数日前にも「景気低迷を切り抜ける答えはデザインにある」というエントリーを見かけましたが、まさかああいうポスターをデザインすることを言っているんじゃないでしょうね(汗) 自分達の利益や力の誇示ばかりで、視野が狭く総体的に考えられない人達の、押し売り的な戯言には、もはや説得力などありません(一番上で書いた政治家と何ら変わらない!!)。一旦デザインから離れ、豊かな時間を大切にする消費者になってからものを考えてください。そういう人達からデザインという作業を取ったら、一体何が残るのか疑問ですが。
つまりは、そういう人達が動かす側として支配してしまっているということ。彼らの目が覚めない限り、現場の体質は変わらない。
関連記事:
ベジーテ誕生/デザイン・コンシャスという盲目











はじめまして。
僕のエントリーを取り上げて頂いて有り難うございました。
確かに、風潮として感覚を信じない、観ようとしない風潮が
はびこっているのは残念な事です。
デザイナーに限らず、自分がプロとしてあり続ける為には
やはり体を使って勉強するしかないと思うんですけど、
最近のデザイン業界は、目立っている人たちの表層的な部分を
なぞって「自分もできるかも」って勘違いが多いですよね(笑)
座ってなんでもしすぎる。。
目立っている人たちの真意や努力に敬意を払わないで表層的な事でしか
判断できないのは、ネット文化の弊害なのでしょうか・・
個人的には、ブログを実名で公開していない段階で
無責任さに輪をかけている様な気がします。
(もちろんそうでない人もいますが)
早速TBコミュ参加しました。