友達のマーギーの家でのパーティ。マーギーが近所に住む日本人たちを招いた。中には外国に住んでいたという夫妻も居て、恐らく一人を除いては英語が話せる人達ばかりだと思うんだけど、ビデオを観ても解るように、なぜか日本人だけで固まって話をしてしまっている。彼らは確かに「お客さん」なんだけど、ほんとにお客さんになって奥のカウチに座ったままで、「料理の用意ができるのは何時ですか〜?」と待っているかのよう。パーティ・・・確かに食事はあるんだけど、「夕食会」とも「飲み会」とも違うし、井戸端会議でもない。僕は当然、立ったままアメリカ人たちと英語で会話を楽しんだんだけど、日本人たちの中に入って行かない僕は、彼らから観たら孤立していたかも知れない。でも僕にはむしろ彼らが集団で孤立してるように見えた。料理は雇ったフィリピーノのケイターが用意してくれたものなので、セットアップするだけだったけれど、マーギーが準備するのを僕とアメリカ人の友人たちが雑談をしながら手伝っている。それ自体もパーティの一部だし、初めて会う人とでも、ひとつの事を分け合って時間を過ごすのは連帯感が生まれて楽しい。
ネットをまわっていたら、パーティについて、非常に興味深い文章を見つけたので下に引用します:
『___日本ではいまパーティばやりだという。たしかに、わたし自身、パーティの招待を受けたり、画廊や試写会に行って、カクテル・パーティに巻き込まれる度合いが以前より増えた。しかしながら、最初は欧米のカクテル・パーティ風に始まったパーティがやがてカラオケ宴会風になってしまうことがよくあり、パーティというのは、日本社会ではなかなか定着しにくいのではないかという印象を受けることが多い。パーティと宴会とは、基本的に機能が異なるのだとわたしは思う。日本の「パーティ」でいつも気づくのは、人の動きが非常にスタティックである点だ。立ち話をしている人が固定してしまい、アメリカなどのパーティにくらべて新しい知り合いが出来る度合いが少ない。われわれのなかにはどうやら〈炉端文化〉とでも言うべきものが沈殿していて、それを崩すことが難しいのかもしれない。欧米のパーティにはホストやホステス(キャバレーの「ホステス」とは違う)がいて、彼や彼女が実にこまめに動き回り、手際よく人を紹介して歩くし、客もよく動く。魅力的な客を独占する者がいると、別の客を連れてきて「あ、失礼、ちょっとご紹介しますワ」とか言って、関係を組み替え、関係が固定するのを巧みに防ぐのである。日本では、動き回る人は「小者」と見なされるらしく、「大物」を自認する人物は絶対に動かない。動かなくても、あとからあとから人が挨拶に来るのであり、結局、日本のパーティは人々が多様に出会うスペースではなくて、上座に座っている人物に下座の者が「拝謁」するための儀式なのである。これは、日本では党(パーティ)が、ネットワークではなく、集団や派閥を統合するボスを頂点としたハイアラキー構造になってしまうことと関係がある。関係は、トップがよほど柔軟でないとなかなか変わりにくい。その代わり、関係が安定しているから、全体が一丸となって機能するのには効率的である。社会というものは、それぞれの歴史と条件をもっているわけであるから、西欧社会と日本のそれとを同一レベルで比較することは出来ない。しかし、テクノロジーと資本の論理で動いている今日の世界は、そうした歴史や個別条件を無視し、結局は、《アメリカ的なもの》(これは、いつまでもアメリカ合衆国の独占品であるとはかぎらない)に従属させてしまう。パーティがはやるのは、決して「欧米かぶれ」が増えたからではなくて、今日の日本社会がテクノロジーと資本の論理を追及するかぎりそれを要求しているからであり、ハイアラキー的ではない、横断的なネットワーク型の社会構造に転身する必要を迫られているからである。その意味では、日本にアメリカ型のパーティがどの程度普及するかということが、日本の資本主義的・テクノロジー的「成熟」の度合いを示唆するということにもなる。___』
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