オリンピックが始まりましたね。僕はいつもオリンピックのような祭典などで「日本、勝て!」なんていう風には見ずに、記録に挑んで頑張る人達は、何処の国の誰であろうと、トップになる事自体が素晴らしいと感動します。人類の可能性を更新してくれるのですから。


昨夜は「So You Think You Can Dance」を観ました。ファイナル4に日本人ハーフのKateeが残っていますが、国籍にこだわって「日本人凄いぞ!」と感じる人達は、半分日本人の彼女が勝ち抜いている事を喜んでくれるでしょうか。それとも「純粋な日本人じゃないし、国籍はアメリカ人だし」と思うでしょうか。ちょっと前にYahoo!ニュースで『「和製マシ・オカ」キャイ〜ン天野』なんていう記事がありましたが、マシさんは日本人で「和製」ですけど?!世界的に有名になっても、日本で活躍してないと日本人とは認められないのか?と、日本人の抱く「日本という壁づくり」的感覚に対して、かなり疑問に思いました。

疑問と言えば、「日本のクリエイターたち絶賛のUNIQLOCK」でのコメントでいただいた「お腹いっぱい」という言葉がずっと心に引っかかっています。「So You Think You Can Dance」を観る度に「お腹いっぱいになるダンスって一体どういうものを言うのだろうか」と、真剣に理解しようと思うのですが・・・・。というのも、ダンスは上手い・下手、創造的か創造的じゃないかというところが最も重要な要素だと思うので、「お腹いっぱい」は大掛かりな仕掛け(楽曲、テーマ、表現のスケール等)という意味では解るものの、「上手いからお腹いっぱい」とか「創造的だからお腹いっぱい」などというのは有り得ないと思うのです。シンプルな表現であっても下手ではいけない。いただいたコメントからは「素人的だからお腹いっぱいにならない」というように受け取れるのですが、これは日本人特有の「親しみやすさ」に魅かれる感覚なのかなと思うし、それ自体、日本の様々な文化的な物たちの発展を妨げる原因であると僕は感じます。そもそも「お腹いっぱい」なんて、単なる個人的な感覚(好き嫌いレベル)でしか無く、その道における基準とは無関係。


僕自身、アメリカの番組を毎日リアルタイムで浴びれる環境になる前は、かなり無知だったと感じます。このようなダンス番組がいくつもある(というか、こういう特別なものに限らず、プロフェッショナルがダンスを披露する機会がいくらでもある。そしてそのダンスの種類も数え切れないし、レベルがめちゃめちゃ高い)ということに無知でした。さらに、極めようとする「個」が、業界全体のレベルを引き上げて引っ張って行くその情熱とパワーは、もの凄いの一言で、(ダンスならダンスが)このようにして発展・進化し続けて行くのだという事にも無知だったと言えます。上の映像の挑戦者たちは、プロフェッショナルたちをも唸らせるほどの技術を披露。自分の得意なジャンルだけではなく、与えられたすべての課題で勝ち抜かなければならないという難関をクリアして行く。こういうものを観て、果たして「お腹いっぱいになるから、もっと素人的なもののほうが良い」なんて感覚を持てるものだろうか。だとしたら、ダンスの本質(というか、プロとして物事に臨むことの意味)なんて全く解っていないのではないかと。

日本のメディアにダンス自体が存在せず、日本人たちが知らない間にも、ダンスは進化し続けています。踊る人達だけでなく、ジャッジたちの厳しく細やかな批評を聞きながら、観る人達(視聴者)の知識・感性も当たり前に「成長」しているのです。

世界的には当たり前に存在し成長し続けているのに、日本人たちの生活に欠如しているもの(つまりメディアに乗って培われないもの)とは何か・・・それは人間が努力に努力を重ねて創造して行く「創造性」だと思うのです。どのチャンネルをつけても同じ面々による「お笑い」ばかりのメディアを観て笑っている間に、観れていないものがどれだけあるのか、気付かないのも無理は無いのだろう。

その感性(知識や経験値)で「ものづくり」をするから、ますます甘くなる。「○○のことなど解らない」という人達にウケるものを作って「売れた」ことのみでしか価値を判断できないのが日本の現場のような気がする。だから誰も引っ張って行く人が居ない。本物が育たない。

色々な意味で日本人は国際的に取り残される一方だと思う。加藤康祐さんの「パラダイス鎖国と言われて」という記事に100%共感します。「モノ作り大国日本」などという標語は、外の世界を知らない日本人が勝手に抱いている妄想に過ぎない。

関連記事:「問題は、危機感が無さ過ぎることです。」
例えば食品の賞味期限偽造などによって、それを食べた人が具合が悪くなったりすれば、その被害は明らかに解るものですが、デザインの場合、質が低いからと言って、ハッキリした被害状況など解らない。与えた側にも、与えられた側(お金を払った側)にも被害という概念さえ無いかも知れない。


以前ある店で撮った写真が出て来ました(ビデオカメラのデジカメ機能で撮ったもの)。「アルコール中毒者用メニュー」?・・・こんなものが堂々と出回っているってどう?

今日もデザイン・ブログ村で、「一般の人達」を見下したような内容のエントリーを見かけました。「一般の人達が自分達デザイナーと同じ優れた感覚を持ってくれているなんて有り得ない」と。きっとこういうお粗末なデザインをしている人達って、「プロである自分ほどの知識や感性は周りには無い」という驕りによる勘違いをしているのだろう。校正はちゃんとしているのだろうか?この間違った英語を書いた人(それと同等、またはそれ以下の人)が校正しているのでは全く意味が無いですよ?

このメニューがあった店の人は、このメニューのおかしさに気付いていないみたい。しかし毎日訪れる莫大の数の客の中には、その店の馬鹿さを笑っている人達は決して少なく無いはず。苦情が来ないからと言って、問題が無いわけでは無いのがデザインの危険なところなのだ。低レベルなデザインは、その店のレベルとして印象は定着してしまう。

しっかり数字で被害が表れなければ事の重大さが解らない・・・そんな馬鹿な機械みたいなクリエイターが多いんじゃないか。

デザインを職業にしていれば「デザインのプロ」?しかし、果てしなくピンキリである「レベル」に関しては、誰も触れようとはしない。低レベルなデザインは、それだけで世の中を汚す公害。

PS:「カフォルニア ワイン」もおかしい。(California)

関連記事:創る素人・堪能のプロ

ビデオテープを整理していたら未編集だったものが出て来たので、編集してアップしました。ある日曜のブランチ・ビュッフェの映像です。どこにも出かけない日曜は、いつも家の近くのレストランで行われている「Sunday Buffet」に行きます。ここに写っている料理は、典型的アメリカの家庭料理と言って良いでしょう。いまだに毎日「アメリカの食生活」という検索ワードで辿り着く人達がかなり多いですが、彼らが知りたいのは「アメリカの食生活がどれだけ酷いか、どれだけ量が多いか」とか「これだけ酷い食生活だからアメリカ人は太っているのだ」という、単なる批判目的の「結論ありきの証拠探し」だったりします。ここ数年、アメリカ人たちでさえ「ポーション(量)が多過ぎる」と感じるほどの量が、レストラン(高級な店は除く)では出て来ます。量でダイナミック感をアピールする店側の意図なのかもしれませんが、客が求める量とは明らかに違います。「半分の量にして値段も半分にしてくれたら」というアメリカ人たちの声も良く耳にします。日本人観光客がアメリカのレストランに行って「ビックリするほどの量」が出て来るからと言って、それを土産話に「アメリカ人はもの凄い量を食べる」と伝えるのは決して正しい情報ではありません。

むしろこういう場所で僕が気になるのは日本人のマナーの悪さと食べる量です。一度に凄い量の食べ物(前菜も主食もデザートも、コースの順番など関係なく)を盛っているのが眼につきます。日本人はビュッフェといえば日本でいう「食べ放題」と勘違いするらしく、海外では日本人客が多いビュッフェの場では「減る量でわかる」と言われています。日本で食べ放題という意味で使われている「バイキング」という言葉は、海外では通用しません。


関連記事:
●UNDERDEVELOPED-MANNER COUNTRY
●THANKSGIVING BRUNCH
●NIGHT OF THE LIVING DEAD

今日、食事に行ったレストランで、かかっていたBGMがすべてアントニオ・カルロス・ジョビンの曲でした。ちょうど昨日ダニエル・ジョビンから久しぶりに連絡があり「また一緒に皆で集まって作品を創りたいね」という話をしたばかりだったので、奇遇でした。昨今の「何だかなぁ」なビジネス的利益最優先なエコ・ブームと違い、昔から環境問題に取り組む活動をしており、作品だけでなく生き方・存在自体がエコロジカルな、「ボサノバの生みの親」であるジョビンのファミリー。本物の魂と共にある偉大な創造を知っているからこそ、偽エコブームが気になってしまうんだよね。


さて、そんな音楽と共にいただいた今日の食事は、スモークサーモンのマリネwithオレン+トマト+オニオン+カッテージチーズ、有頭海老とブロッコリーのガーリック煮、アボカドと生ハムと夏野菜の冷たいスパゲティ、そしてデザート。

食後の「シャンパーニュ・ロゼ」というお茶も美味でした。
08.08 (Fri) 00:23 [ 音楽 ] CM0. TB0. TOP▲


自分の作品のプロモーションを兼ね、マイケル・センベロ「GRAVITY」のビデオクリップを再編集して、ロング・ヴァージョンを創りました。以前この曲のビデオクリップをYouTubeにアップしたところ、世界中から沢山のコメントをいただきましたが、センベロ本人の映像は入っていなかったので、今回は多く盛り込んでみました(特に後半)。



さらにオープニングには、ロン・ハワード監督(ダヴィンチ・コード、ビューティフル・マインド、アポロ13)が曲紹介するイントロも追加。曲も少し延ばして、約8分に及ぶ長編音楽クリップになりました。



ちょうど、この「デザイン髭」の頃ですね(笑)


Fusion Cuisineのランチ。「Fusion」という言葉は、日本では音楽のジャンルとしてお馴染みですが、元々の意味は「混ぜ合わせ」とか「融合」という意味。我が家では、アメリカ人宅で日本人の僕が毎日調理しているので、毎日がFusion料理のようなものです。本格イタリアンやフレンチなどの、それぞれの国の伝統的料理も良いですが、Fusionはさらにそれらを融合させた創造性が求められるので、こういう店で料理を味わうのは、とてもエキサイティングです。

僕がオーダーしたスパークリング・ワインは、ブルーベリーのスパークリング。浮いているのは、同じスパークリング・ワインを凍らせた氷で、味が薄まらないように配慮されています。前菜はシーフードと夏野菜のガスパッチョ風の冷製スパゲティ。海老やイカ、タコなど、新鮮な素材がふんだんに使われていて、ガスパッチョには様々なハーブ系スパイスが利いていて、複雑な味でした。連れは生ハムと白桃にパルメザンとフェンネルとディルを添えた前菜をオーダー。僕のメインコースは白身魚(鱸)の山葵ソース。連れは子羊をオーダーしましたが、僕が自分のメインディッシュを撮影している間に手を付けてしまったので、撮影を断念(^_^;)。いつものようにデザートの前に(まだワインがボトルに沢山残っていたので、それを終わらせるために)メニューにはないチーズコースをオーダーしようとしたのですが、店員に伺ったところ「本日のメニューに使用しているパルメザンとゴルゴンゾーラの2種しか無い」とのことで、あきらめ、前菜メニューの中からオーダーしました。「生ハムと白桃にパルメザンとファンネルとディルを添えた前菜」が2度映っているのはそのためで、最初のは連れがオーダーしたもの、2度目のは僕がオーダーしたものです。連れの2度目の前菜は「帆立といちじくのCutlet」。←「カツレツ」と書くと、日本人はトンカツを思い浮かべがちなので、あえてオリジナルの「Cutlet」と書いてみました。高温の油で短時間で調理しているので、中の帆立は刺身状態で、いちじくのフルーティな味とマッチしてとても美味。デザートは白桃が入ったシャンペンのジェロとアイスクリーム。

今日はこの食事をしながら、デザインとアートの事をまた考えていました。クリエイティヴの仕事も、結局は料理と同じで、味わう人達の時間の質となってこそ価値のあるものですから。レストランで言えば、食材、レシピ、調理、出来上がった料理、食べるという順番を経て、最終的に人々のものとなり、時間となって行きます。勿論、料理だけでなく、食器やインテリアの演出や、店員のサーヴィスそのものと一体になって、価値を生み出します。その最終的なものは「アート」と言えるでしょう(「デザイン」というものは、まだ物から離れておらず、その物のクオリティが時間の一部となる時、それはアートとして人の人生を彩るものだと思うのです。どんなに色・形・スペックが良いものでも、物が箱に入った状態では、何の役目も果たさないという事からも、「人の時間の質となってこそ」という事は言えると思います)。レシピは「創造のアイデア」。調理は「デザインすること」。出来上がった料理は「出来上がったデザイン」(料理の盛り付けは英語で「Presentation」と言い、決してデザインのプレゼンテーションのみを指す言葉ではありません)。そしてそれが人々のものとなり、時間の質となる時、それはまぎれもなく「アート」です。そのアートのためにデザインするのです。料理は「食の芸術」(「食文化」となって行くもの)ですが、レシピ作りや調理自体は「デザイン」という作業的/工程的な事なわけです。ですから「デザインはアートか」とか「デザインはアートじゃない」という議論は、僕の中ではナンセンスで、そういう切り離し方は「有り得ない」と思うのです。切り離せないし、切り離す必要もありません。もしもデザインをアートを切り離して、デザインだけやってる人がいるとしたら、それはレストランに置き換えてみたら、どんな店か解りますよね。本当の目的が見えておらず、自分の作業さえ済めば良いと思ってるような調理人がシェフを務めている店でしょうか。残念ながら、そういうデザイン屋が多いというのが現実です。

今日の料理の出来があまりにも創造的で良かったので、連れはウェイトレスを呼び止めて「シェフに今日の料理は大変素晴らしく、とても楽しませてもらったと伝えてください」と言ってました。

関連記事:JUST WASTING TIME

客はアートでやって来る客はアートでやって来る
(2008/01/31)
山下 柚実

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こういう事を理屈だけで解っても無意味ですけどね(笑)こういう本を読む事ではなく、自分はそう過ごす時間を大切にしている人間かという事が大事。
08.04 (Mon) 03:53 [ グルメ ] CM0. TB0. TOP▲

ゲイリー&ジェレミー親子と共にアジアの仏教芸術を鑑賞しに行きました。こういう芸術はアジアが世界に誇れるもの。しかしアジア諸国の中でも、日本人の日常の中には欠けているものです。精神のあるアートは素晴らしいですが、むしろ「精神論」を嫌う傾向にある日本のクリエイティヴの現場。それだけでなくクリエイティヴの現場で「芸術」という言葉さえも敬遠される始末。世界で最も機械的な人種になってしまっている気がする。

先月初めて訪れたレストランに40日振りに訪れました。ワインリストを眺めながらワインは何にしようかと連れと相談していたら、ウェイターが「前回いらした時には○○をオーダーなさいましたが」と、すかさず指摘してくれました。凄いプロ精神!そういうデータはコンピュータ管理しているのかも知れませんが、それにしても「痒い所に手が届く」見事な対応に感動しました。

話は変わりますが、このブログの記事を取り上げてくださっているこんなブログを発見。 良いデザイン(正確には「デザイン」という表現的/物質的な部分だけでなく、デザインの存在する時間や、そのデザインを堪能する人々の人生まで)を追究する上で、「こうすれば良いデザインが出来る」というような事だけでなく、いま存在する悪い部分(問題点)をクリアしなければ、結局はその問題が解決されない土台の上に、結果だけを求める形だけのデザインを築く事になる・・・というのが僕の考え方です。しかし現状は、業界の問題点について語る場所には、ほとんど僕ひとりで語っている状態で、本気で問題点から解決しようというクリエイターがほとんど居ない。そんな失望感の中で、少しでも賛同してくれるクリエイターが存在することを知ることで勇気づけられます。

例えば上のビデオで、客は「調理のプロ」ではないけれども、「味の解らない人達」ではありません。むしろカジュアルなレストランに行くと「この店員は客の要望を全く解っていない(=客として良い店に行ってない/良い店の客としての経験が無い)」と感じる店は沢山ある。「店員」とか「調理師」というプロの肩書きだけで、客を素人扱いできるものではありません。我々客は「食べるプロ(堪能の達人)」なのです。作るだけが「プロ」ではなく、その質は堪能者の質(レベル)で決まると言っても過言では無いでしょう。

以前、「デザインは世の中のあらゆるものに存在するのです」というような当たり前な事を素人に向って仰々しく語るプロが目立つという記事を書きましたが、「作るプロ(職業)」というだけで、一般の人達を見下すようなクリエイターの馬鹿にした態度がとても気になるのです。

僕の記事を取り上げてくださった方は、そういった部分でも同じ感覚を持っているようで、「デザインの素人なんていない」という記事も書かれていました。このブログにも「素人はデザインの存在など解っていない/人がデザインしているなんていう意識など無い」という決めつけ的コメントが寄せられたりしましたが、確かにそういう人が居ないとは言い切れません。しかし、そんなレベルの低い人達に対してしかプロ面で威張れないようでは、そもそもプロである価値などありません。

僕が、外に出てクオリティの高いものに触れ、客として体験すること(その時間)を何よりも大切にしているのは、そこにすべてが有り、ものづくりの精神と、その「理由」が存在するからです。一方、どこにも行かず、体験もせず、作業的な事ばかりしているようなクリエイターたちは、頭の中で理屈ばかり考えています。良いデザインとは・・・そんな定義なんか、ただの空想的マニュアル作りじゃないですか。マニュアルなんて、読めば理解できたような気になるものだし、誰にでも受け売りは可能です。どこかの教科書にすでに載っているような定義をブログで書いてるだけの自己満足系。そんな事をしている間にも、堪能のプロたち(クリエイターたちは彼らの事を「素人」扱い)は、実体験として多くを吸収している。

「お客様のために」などと言いながら、調査やデータに頼るだけだったり、セミナーを開けば良いと思っている。結局問題点は放ったらかしだし、そのセミナーは当然お客様抜き・・・そんなベテラン達が、そのやり方に何の疑問も抱かないのだから、この先業界を悪くする一方だと思う。問題だと思わないことが問題。若くしてこんなことをしっかり考えられる人も居るのに。

関連記事:
DESIGNER'S SENSE?
言葉にできないこと

今日は2時間しか睡眠時間が取れないまま出かけたのですが、午前中からこんなものをいただきました。「お腹は空いていないので、冷たいカッペリーニを一皿で充分」と思って店に入ったものの、メニューを見たら誘惑に勝てず、軽めのセット・メニューにしました。同伴の友達はフルコース・・・パーニャカウダなど、つまませてもらいました(^_^;)。


野菜サラダと紫芋のスープがついて来ました。紫色が鮮やか!(熱いスープでしたが、冷製のほうが良かったかも。)


メインはトマトと桃の冷たいカッペリーニ、ミント風味。トマトと桃の風味が絶妙でした。他の果物(パッションフルーツ系)でも試してみたいです・・・今度、家で作ってみよう。


またまたメニューには無いチーズコースをオーダー。マイクロ・トマトつき。このあとデザートとコーヒーもついて来て、結局3時間近く語らいながら、食事を楽しんでしまいました・・・なんだかイタリアンな人々の過ごし方になって来ているような(^_^;)
08.01 (Fri) 05:23 [ グルメ ] CM0. TB0. TOP▲


花や植物の色、形・・・完璧なデザイン(在り方)だなぁと感動します。生きている「気」というものを感じる事も、美しさの大事な要素。「限りなく純粋に」「作業的にならない」「調和する」・・・創造における大事な事を教えてくれるかのようです。